BOOK REVIEW――思考のためのブックツール・ガイド 1997/Spring
歴史的な転換期にあるとおもわれる現代。
大きな転換期には、これまでの常識やあたり前といった意識が、未来への対応を誤らさせてしまう。
昨日を守ろうとする試みは、より多くの損害をもたらすのである。
未来を生きるためにわれわれはどのように生き、どのような人生観や人生設計をもてばいいのだろうか。
このページに紹介されるビジネス書関係は、そのようなことを探ろうとして、 おもに94年から95年にかけて読まれたものです。(もちろん最近のものもあります)
だいたい94、5年というのは、平成不況が長引き、どこに行くのかも、これからどうなってゆくのかもわからない、踊り場で立ちあぐねているような時代であり、わたしはこれらの時に、せっせとビジネス書や文明論などを読み漁っていたのである。
オウム事件が起ったときにも、「世界史地図」をながめながら、国家や文明の変遷とは、なんなのだろうか、う〜んとうなっていたのである。
日本社会は、新しい価値観や「大きな物語」をふたたび創り出すことができるのか、以下の書物たちによって、探り出すことができるだろうか。
浅井隆+林英臣『超恐慌 800年に一度の大動乱があなたを襲う!』
1994/9出版 総合法令 1600円
浅井隆が「文明800年周期説」をもつ林英臣をとりこんだ本であり、現在の経済危機を、文明論の視座で提出している、心高鳴る本である。
この東西文明の800年周期サイクルがひじょうに興味をひかれる。12世紀を境にアジア文明が没落し、ヨーロッパ文明が栄え、その800年後の21世紀にふたたび東西文明の交替は起るというのである。
東洋のルネッサンスがはじまり、日本は東の文明のギリシャになるという。
現在は、幕末にほかならないと著者はいう。
たしかにそのような兆候はたくさん出ていると思うのだが、ふと日常に返ってみると、だれもがこれまでどおりの日常がけだるくつづくという雰囲気に満たされているのは、なんなのか。
『ラビ・バトラの世界経済大崩壊』 徳間書店 1900円
この本はアメリカで1978年に出版され、共産主義の崩壊を見事に予言していた。
それが実証されて、2010年ころまでには資本主義も崩壊すると予測するこの書は、日の眼をみることになったそうである。
バトラが共産主義の崩壊を予測したのは、支配階層が軍人、有識者、守銭奴と移り変わるという社会サイクル理論によって導き出したというのである。
まずは社会のなかで軍事力をもったものが支配し、つぎに知識、そして富、といったように社会は動くというのである。
ロシアのばあいは、ロマノフ朝以降、軍人が力をもっており、現在はこの力が衰退しており、ゆえに早晩崩壊すると予測したのである。
つぎにくるのは、有識者だそうだ。
このように軍⇒有識者⇒守銭奴といった社会サイクルを、西洋文明、ヒンドゥー文明、日本にあてはめていったのが、この書である。
西洋文明では現在は守銭奴の時代であり、虐げられた労役者や軍人たちが社会革命をおこすと予測している。
日本では、守銭奴の時代がピークを過ぎ、社会革命寸前の欧米やインドまで急落下するということである。
このような富裕者から労役者への時代というのは、平安から室町時代にかけて一度日本は経験しており、そのあとの時代になにが起ったかというと、応仁の乱などの戦国時代をへて、織豊、徳川時代へと終結していったのである。
これから日本はこのような混乱した時代を迎えることになるのだろうか。
わたしはこの社会サイクル理論が事実なのか、検証してみたが、どうもわたしの力の及ぶところではないようだが、歴史をこんなに単純化できるかどうか、すこし懐疑的だ。
それに歴史というのは、「解釈」としか現れてこないし、現代の価値観が色濃く反映された像しか、光を当てることができない。
ある時代の国家や社会がどのような価値観で動いていたか、というようなことを知るのはかなりむずかしいのではないだろうか。
だが、混沌とした時代には、歴史のサイクル理論はひじょうに魅力的である。
アルヴィン・トフラー『パワーシフト 21世紀へと変容する知識と富と暴力』
1990/10出版 中公文庫(上下巻)/フジテレビ出版1200円
名著としか呼びようのない名著である。
トフラーの著作は世界30ヶ国以上で訳され、合計1000万部を越えるという。
経済や社会のなかでの現在の変化が、どのような理由でおこっているのか、目からうろこが落ちるような図式的な説明で理解させてくれるところはすごい。
従来の煙突型産業から、トフラーのいう知識が力をもつことになる超象徴経済へのシフトが、企業組織や官僚制、政治、国際情勢などにどのように現れているか、具体的な事例をたくさん並べながら、説明されてゆく。
その手腕のものすごさは、まるで神業にちかい手品師のようでさえある。
これから力をもち、役に立つのは知識であり、棄てられるべきもの――つまり知識の交流や流通を阻害するもの――工業社会のピラミッド型組織や、批判的知識をよせつけない一党独裁政治や官僚制、といったものがあげられてゆく。
トフラーはおそらくこれまでの工業社会の組織や労働関係といったものにひじょうに不快感や憤りを感じてきたのだろう、かれのかつて働いた第二の波の職場での経験を哀切をもって懐古しているし、官僚制や大量生産型組織の旧弊さや時代の不適合さを痛烈に露呈させてゆく。
だからトフラーの本は過去の権力構造が崩壊するような未来が、いますぐにでもやってくるような期待をもたせるのだろうが、そのような未来はなかなかやってこない。
この未来論は、そのような意味で、現在の労働社会からの逃避を夢見る楽観的な想像を満たさせるものなのかもしれない。
マルクス主義なきあとの願望的社会観なのだろうか。
だがわれわれの社会とはこのような願望こそが未来を創造してゆくのであり、そしてそのような意識の潮流が――たとえば消費や経済効率の方向性に現われ出ることによって、過去の権力を洗い流してゆくのではないだろうか。
ウィリアム・ブリッジス『ジョブシフト 正社員はもういらない』
1995/6出版 徳間書店 1800円
われわれの仕事がこれからどうなってゆくかということを知るには、かなりの名著ではないだろうか。
われわれが自明としている企業から与えられるジョブという労働形態は、たかだか大量生産以降の200年の歴史しかないという。
そしてそのジョブという形態はその役割を終え、なくなってしまうというのだ。
仕事とは、会社から与えられるものと思っているわれわれにとっては、青天の霹靂ではないだろうか。
替わりに人材派遣やパートタイム、アウトソーシングがコアとしての正社員を上回り、臨時雇いベースの仕事環境になり、自分が仕事をつくりだしてゆく自営業者のように仕事をしなければならないというのである。
つまりは会社に就職したら、はい、これがあなたの仕事ですよとぽんと、仕事が与えられるのではなく、みずから仕事をつくりだし、
一時的なプロジェクト・チームを組み、それが終れば、解散するという形態になるというのだ。
このような労働関係では長期雇用はのぞむべくもなく、年金も健康保険ももちろんないし、自己責任にゆだねるしかないのである。
われわれ日本人は、会社を自分のすべて・アイデンティティだと思ってきたし、 ゆいいつの所属する共同体にしてしまってきた。
このアイデンティティを支える根本的条件が、世界経済や情報化の流れによって、うち崩されようとしているのである。
われわれ日本人はおそらく、これまでのジョブや会社共同体に しがみついてしまうことになるだろう。
そしてそのような過去への執着は、流れに任せるより、よく多くの損害と被害を、結果的に与えることになってしまうのである。
終身雇用や年功序列、家族的共同体といった、これまでの会社のよいところばかりを懐かしがるのではなく、これらのコインの裏側――長時間労働や過労死、共同体への埋没、個人生活の喪失、若者の無気力化、そういったところに目を向ければ、過去にオサラバすることができるのではないだろうか。
チャールズ・ハンディ
『ビジネスマン 価値逆転の時代 組織とライフスタイル創り直せ』
1994/6出版 TBSブリタニカ 1800円
ビジネス書の鋭い「人生論」のような本だが、未来の変化もしっかり考慮している点がすばらしい。
21世紀を迎えるころには、フルタイム・ジョブについている者は、労働人口の半数にも満たなくなり、常勤の仕事につくのが当然という考え方や見方が意味をなさなくなるという。
全従業員の時間をそっくり自由にしようとするのは、あまりにも贅沢すぎるのだ。
かつて工業社会がおこるとき、教会や地主の権力は衰退していったが、これからの社会では、大企業やマスコミといったものがその役割を終えてしまうのかもしれない。
これからの不連続性の社会では上下逆転の発想が必要になる。
現在の医者は治療することにより報酬を得ているので、病気の診断を下したくなるが、健康だと診断した件数に応じて報酬を与えてはどうだとか、報酬の金額を増やすより、自分の時間を与えるほうが歓迎されるのではないか、一般道路は無料なのに、鉄道はなぜ料金をとるのか、といった度肝をぬく発想がハンディから語られてゆく。
かれの学習についての考え方もすばらしく、現在の学校教育では、すべての問題はだれかが解決ずみで、答えはどこか手近なところにあると思わせてしまうといい、本当の学習というのは、 疑問に答えたり問題を解決することにかかわっていると語っている。
これからの変化の多い社会では、学校教育を終えたらいっさい学習をしないといった考え方は、たえず技術や知識が新しくなってゆく時代に適合しなくなってゆくのではないだろうか。
月尾嘉男『マルチメディア超企業破壊 情報革命で潰れる会社・生き残る会社』
1995/4出版 徳間書店 1400円
最近のインターネット社会の予測はあまり知らないのだが、この本は新聞やテレビ、銀行、代理店が消滅すると予測した本で、
流通業や医療、製造業、教育、行政の大転換を概括し、未来社会の状況がかなり図式的に理解できるようになっている。
もしマルチメディアによって、これまでの多くの産業が不必要となるのなら、はたしてその失業者たちは、いったいどうなるのかと考えさせられる。
産業革命がおこり、大量の失業者がラッダイト運動をおこしたり、インドの綿織業が壊滅的になったような状況になるのだろうか。
そんなに極端に世のなかは変わらないと思うのだが、そのような未来はひたひたと足をしのばせて近寄ってきているのかもしれない。
レイ・ハモンド『デジタル・ビジネス インターネットで成功する方法教えます』
1997/4 日経BP社 2200円
これはひじょうに有益な本である。
ネットワーク経済の出現が、出版業界や小売業界といった存在を無意味にしてゆく過程があっさりと説明されていて、目からうろこが落ちる本である。
キーワードは、「超専門化」である。
徹底的な専門性の追求が、規模の経済にとって代わる。
物理的な土地の制約があったからこそ、情報をあつめる中間業者は必要になったのであり、その役割はこれからネットが果たしてしまう。
これまでの経済というのは、「編集」能力にかかっていたのではないだろうか。
つまりいろいろなところに散らばっていて、なかなか集められない情報を、雑誌の編集のように、特定の情報を一ヶ所に集める。
デパートやスーパーマーケット、小売というのは、生活用品を編集したのだ。商社や卸もそうではないだろうか。
この編集能力がネット上に移ってしまい、より有効な編集能力をもつようになると、多くの経費やコストが必要な旧来の流通経路は不要になる。
これまで成功した企業が不利になるのは、そのことによる。
このことが経済や社会にあたえるインパクトはなみたいていのものではないし、この意味や理由を理解しないことには、つぎの時代にはとりのこされてしまう。
この本はそのようなことをひじょうにわかりやすく説明し、またわたしにとってもネット上でのビジネスの可能性を示唆するものでもあった。
なお、この本はネット上でも無料で発表されており、著者の著作権にたいする考え方が示されており、またこのなかで紹介されているホームページにリンクが貼られていて、ひじょうに挑戦的なこころみになっている。
ピーター・F・ドラッカー(1909〜 オーストリア生まれ アメリカ在住)
『すでに起こった未来 変化を読む眼』 1994/11 ダイヤモンド社 2300円
ドラッカーというのはすばらしい。
経済のなりたちや、現在の経済がなぜこのようになっているのか、といったことをひじょうに鋭い、ウィットに富んだ文章で、削ぎ落とした言葉で語るのがよい。
わたしは一時期、このドラッカーにぞっこんで、古本で半額で買えるのがまたよく、古本屋を探し回るのを趣味にした。
この本は、経済学、仕事や技術の歴史、情報社会といったものが語られている。
いちばん感銘したところは、近代世界観の転換点を1720年から1770年の50年のあいだに求めたところである。
『未来企業 生き残る組織の条件』 1992/8 ダイヤモンド社 2400円
この本では、低賃金がもはや競争上の強みでないといったことや、ブルー・カラー労働者の凋落、非営利組織の管理といったものが語られている。
1965年から73年にかけてひとつの分水嶺があり、それは進歩の時代の終焉を告げるものであり、かつて1873年にもそれまでの時代と断続する境界があり、このときから健康保険や年金などの政策がはじまり、今回の境界はそれに匹敵するような大きな転換をもたらすものだという。
ほかに感銘した部分は、経済学は1929年以前にはかれらに質問すれば、わからない」と答えていたということや、19世紀の組織は、1865年から1914年のあいだにはできあがっていた、ということなどである。
『新しい現実 政府と政治、経済とビジネス、社会および世界観にいま何がおこっているか』
1989/7 ダイヤモンド社 2000円
サブ・タイトルにあるように、あらゆるジャンルでおこりつつある新しい現象を、ドラッカー特有の整理的図式で、すっきりと理解させてくれる。
ドラッカーはなぜこんなに新しい現実に気づかせてくれるのがうまいのか。
歴史の流れを単純化し、整理し、未来への意味の通った年表にしてくれるからかもしれない。
われわれはたいてい、現在におこっていることにどのような意味があるのか、どのような価値があるのか、なぜそれがおこったのかを、知らないし気づかない。
ドラッカーはそれにすばやく気づき、整理した解釈を提出してくれる。
学者仲間だけの閉じこもるのではなく、いっぱんの人たちに理解させることが、学識者の義務であることにかれが気づいているからだろう。
事の意味あいや価値を知らなければ、われわれはそれに対処する方法を誤ってしまう。
たとえば原因は変わっているのに、現実の意味合いを知らないで、過去のこれまでのやり方で対処してしまうと、なんのよい結果ももたらさないばかりか、悪い結果さえ導いてしまう。
そういった意味で、大きな社会の分水嶺を迎えた現在にとって、新しい現実を理解することは、急務になっているといえるだろう。
ぬるま湯が熱湯になっていることに気づかないゆでガエルのたとえ話は、まったくこれに当てはまるのである。
『ポスト資本主義社会 21世紀の組織と人間はどう変わるか』
1993/7 ダイヤモンド社 2400円
ドラッカーというのは、おそらく歴史の意味や価値をわかりやすく整理してくれるところにその魅力があるのだろう。
歴史の転換期にはどのような逆転がおこったのか、歴史上の技術や知識の発見は、社会や歴史をどのように変え、インパクトを与えたのか、そういったことの説明がひじょうにうまい。
目の前にあっても見えないものを、あざやかに見えさせてしまうのが、ドラッカーの腕さばきである。
この本はおもに知識が技術や社会に与えるイノベーションについて扱ったものであり、このような転換が、これからの経済社会に必要なことを示唆している。
知識が、20世紀の戦争をひきおこした資源のように、重要になってくるのである。
これまでは高等教育をうけただけで知識があり、権威が付与されてきたが、それを技術や仕事、生き方に応用させてゆくことが、これからの知識社会において、真に必要になるものだと力強く説得している。
わたし自身も学校や本で得た知識を、いったいどのように現実に応用し、使いこなせばよいのか、呆然となるしかなかったので、そういった技能をつちかうことが、これからの課題になるのである。
ドラッカーは近代社会の創造者は「ダーウィン、マルクス、フロイト」ではなく、マルクスのかわりに、テイラーを入れるべきだといっている。
革命をおこすはずだったプロレタリアをブルジョワジーに転換させたのは、テイラーによる生産性革命だったからだというのである。
『マネジメント・フロンティア 明日の行動指針』
1986/10 ダイヤモンド社 2400円
巻頭にインタヴューがあり、ドラッカーの人となりが知られてよい。
そっけなく、ぶっきらぼうに答える内容が、またもや魅力的だ。
この本には、変貌した世界経済、ホワイトカラーの生産性、マネジメントの成功がもたらした問題など、多くの項目が、短い論文として、たくさんおさめられている。
感銘した部分としては、むかしのインドの穀物の多くは人間ではなく、昆虫やねずみの口に入っていた、ということや、ブルーカラーの職場を維持しようとする努力は、失業を維持するだけの処方箋であるということなどだ。
『イノベーションと企業家精神 実践と原理』
1985/5 ダイヤモンド社 2000円
かなり実際的な経営革新についての本だが、もちろんドラッカーの視点は、企業内部だけではなく、社会や経済におけるイノベーションにまで目を向けている。
企業のイノベーションは、社会全体の変化についてもじゅうぶんに適用される。
明治維新も、戦後の復興期も、イノベーションにほかならない。
わたしはドラッカーの本を読むと、感銘した文章を抜書きしていたのだが、この本はそれの容量がかなり多くなった。(読む順に減ってゆくという傾向もあるが)
カセットやビデオの発明は、技術として捉えるより、消費者の価値観や欲求という需要側のイノベーションとして捉えるべきであるということや、消費者は商品を買っているのではなく、用途の効果を買っていることなど、 感銘した部分がいくつもあった。
『断絶の時代 来たるべき知識社会の構想』 1969/3 ダイヤモンド社
当時ベストセラーとなったそうだが、ビジネス書としてはいささか古いが、経済史の考察は古びるものではないし、それは未来にも適用されるものである。
以下は、この本にのべられていることである。
戦後の経済発展は、じつは第一次世界大戦前にビッグ・ビジネスになっていた産業によってなしとげられたものであり、ビクトリア時代の遺産なのである。
中世のヨーロッパ農奴は、王や修道院に保護や土地譲渡をもとめたために、従属的なものに変化してしまったのであり、現代のサラリーマンが企業に年金や年功保障、健康保険をもとめることに似ていないだろうか。
この当時から、知識はなにかに使うために用いなければ、それはただの資料、情報にすぎないといっている。
ダニエル・ベル『知識社会の衝撃』 1995/9 TBSブリタニカ 2000円
これからの知識社会がどのようになってゆくかという問題には、ひじょうに興味をひかれる。
わたしは多くの人が、作家や画家、音楽家、映画家、ジャーナリスト、そういったもので生計をたてるようになるのではないかと極端なことを予想していたが、そのような芸術家社会がほんとうにやってくるのだろうか。
この本はタイトルがよいし、期待させるところは大だったが、あまりその期待を満足させるような本では、残念ながら、なかった。
この人がひじょうに著名な社会学者であることは知っているが、ドラッカーの著作のようなすばらしさはなかった。
テーマとしている項目は、ひじょうに興味のあるものが多く、コミュニケーション革命やイデオロギーの終焉再論、アメリカ中産階級の崩壊、などがとりあげられている。
ロバート・B・ライシュ
『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ 21世紀資本主義のイメージ』
1991/10 ダイヤモンド社 2200円
国民国家という概念が過去のものになると語っている本書は、ちょっとおカタクて、正直なところ、わたしの理解力を越えるが、シンホリック・アナリストについてのべている章はひじょうに魅力的だ。
かれらの仕事は、混沌した現実に意味や解釈を与えたり、方程式や公式、製図などを駆使しながら、パターンと意味をつくることである。
このような作業がこれからの経済社会を形成してゆくことになるのだが、これまでの教育や情報といったものは、すべて他人やメディアから与えられ、だれか他人のやる仕事であり、すでにできあがり、どこかにあるものだった。
組織や社会に疑問をもったり、思考をはたらかせることは危険なことであった。
しかしこれからの経済にはまさにこのような疑問や思考、新しく創造する力、といったものがおおいに必要になるのである。
われわれ日本人は、与えられた情報や知識、組織といったものに、疑問や思考をもつことは、はたして可能なのだろうか。
過去のデータのつめこみ教育や暗記に終始してきた学生にとって――卒業しても、メディアや企業にあたえられてきた知識をうのみにしてきたわれわれにとって、新しい想像力をはたらかせることはできるのだろうか。
さいわい、ゲームやアニメ、ロックといった分野には、このような能力をもった人たちがたくさんいる。
ただ親の世代が、このような変化に気づかず、過去の暗記知識に権威をおき、その押しつけをまだ強要しているようだったら、その芽をつみとっていることになる。
いかに早く、この変化をほかの分野にまで適用できるかということが、創造的な社会をつくってゆくキーになってゆくのではないだろうか。
ジョン・ネスビッツ『2000 トウェンティハンドレッド 黄金世紀への予告』
1990/2 日本経済新聞社 2200円
どうもネスビッツの本というのは、わたしはあまり好きではない。
楽観的すぎて、あまり鋭さがないからかもしれないし、知識社会についての予測もあまりないからだろうか。
多くのことを語るデータ・バンクのようなもので、多様な状況を概括してみるには、適した書物なのかもしれない。
世界的な文化スタイルや福祉国家の民営化、生物学の時代、といったものはおもしろいかもしれない。
江坂彰『サラリーマンこれからこうなる』 1987/7 PHP文庫 460円
会社の組織や人間関係といった細やかなことをひじょうにていねいに描き、目線がひじょうに日常的であり、好ましい本である。
会社や組織がよくわからないわたしにとっては、会社というのはこのような捉え方をするのかと、かなり勉強させてもらった本である。
わたしにとって、会社とはたんなる人間関係や上下関係の規律にしかみえないところが、自分でもなさけない。
江坂彰 野田正彰『人活論 したたかな個人主義が会社を救う』
1996/6 徳間書店 1200円
帯の「「軍国主義」で敗れた日本は、いままた「経済主義」によって敗戦国となった」というところが気に入って、いっきに読み終えた本である。
これまでの経済主義のあやまりや失敗、これからどうすればよいのか、といったことが、かなり要領よくのべられている。
戦後日本経済にたいする多くの鋭い洞察に貫かれている本書は、もやもやとして見えにくい企業社会の窓を、クリーンなものにしてくれる。
戦後経済社会のすぐれた総決算のような本である。
浜田和幸『知的未来学入門』 1994/8 新潮選書 1000円
こんな本もあったのかという未来学の入門書。
わたしはできれば、すぐれた未来学者のブック・ガイドであってほしかったのだが、ここに出てくる人のほとんどの本はいずれも新刊書で手に入れることはできない。
たとえ古本屋でみつけたとしても、古すぎて読む気にもなれない。
未来というのは、すぐに過去になってゆく。
長く読むにたえる未来学の本というのは、歴史や人間社会にたいしての鋭い洞察をのこした本ではないだろうか。
角山榮『アジアルネッサンス 勃興する都市文明』
1995/2 PHP研究所 1200円
現在の経済がなぜこのようになっているのかを顧みるには、かなりよい本である。
著者はお茶や時計の生活史といった視点から歴史をながめているので、かつての人間たちがどのような欲求をもち、どのような価値観や欲望で動いていたのか、といった日常の視点から知ることができるのがよい。
ヨーロッパ近代文明がずっと世界をおおってきたという認識をひっくり返してくれるし、現代の日本がはじめて「経済大国」になったというのはウソで、室町時代の戦国末期、安土桃山時代には国富のモノサシである金銀の生産量が世界の1、2位を争うほどだったということを教えてくれる。
ジェームズ・デビッドソン+ウィリアム・リース=モッグ
『大いなる代償 過去の『つけ』が生む国際経済の危機』
1992/7 経済界 2200円
ビジネス書にも、社会問題や人間に鋭い洞察を向ける、こんな名著があったのかということに驚いた本である。
株価や恐慌についてあつかった章はもちろん、わたしはインセンティブ・トラップという問題がひじょうに印象にのこった。
もし一定の額だけを支払い、いくらでも使ってもよいクレジットカードを多くの人と共有したら、どうなるだろうか。
だれもが国会議員のように金を使い、やがてその集団は破産するはずだ。
資源枯渇や環境破壊、動物の絶滅、生態系の破壊、すべて同じ問題だ。
ほかに物価は戦争時にはねあがるのだが、戦後の物価上昇は戦争がなかったのになぜ上がったかというと、じつは冷戦があったからであり、冷戦の終焉後、物価が下がりつづけるのは過去の物価指数が示している。
この本は社会問題にも目を向けたひじょうに心に残る名著である。
ジェレミー・リフキン『大失業時代』 96/5 TBSブリタニカ 2000円
そういえば、コンピュータは仕事を増やすばかりではなくて、工場のオートメーションのようにわれわれから仕事を奪ってゆくのではないか、という単純なことに気づかせてくれた本である。
コンピュータは卸売業やサービス産業などの職を消滅させてしまい、これらの業界からの失業者は、知識社会に必要とされているエンジニアや科学者、コンサルタント、教師などにいきなり変身することなどできない。
だから、いままさに工業社会と知識社会のはざまにおいて、大失業時代の危機に立たされているというのである。
陰鬱になるこの本には、しかし、ボランティア活動のなかに、つぎなる社会の萌芽を見出しているところは、とてもすばらしい。
つまりこれまでの経済というのは、モノやサービスを売ってでしか生活の糧を得られなかったのだが、なにか社会に貢献するボランティアを行うことによって、報酬を得られるようにしてはどうか、ということがのべられているのである。
この発想には、これまでの私利私欲の消費や金儲けだけにつきすすんできた、われわれに強烈なカウンター・パンチを食らわせる。
われわれは自分のモノや幸福、快楽だけにかまけて、はたして社会や人類、ほかの人たちにたいする思いやりや貢献、無償の奉仕、といったものを心にもったり、行為したりしてきただろうか。
この消費社会は、「自分さえよければ」という心を育んできたのではないのか。
この原因には、「個人の満足」を売って、報酬を得るという経済の制度があるからではないのか。
個人の満足から、社会や共同体の貢献にその価値や制度をスライドさせれば、これまでのような私利私欲の消費に溺れる経済システムから、抜け出せるのではないだろうか。
アメリカでは人口の半数がボランティアに関わっており、この発想はまったくの絵空事ではないが、安易な社会主義思想におちいってしまわないか、気をつけなければならない。
アンソニー・サンプソン『カンパニーマンの終焉』
1995/12 TBSブリタニカ 2000円
タイトルはひじょうに魅力的だし、申し分のない分厚さの本だが、わたしの期待を上回るほどの出来ではなかったように感じられた。
J・S・ミルやカフカの仕事風景が出てきたり、企業社会にたいするこぎみよい風刺なんかが効いていたりして、企業社会の変遷史を知るにはよい本なのだが、わたしが求めているのはこのようなものではなかった。
おそらく、企業組織がどのように社会や個人を規定し、介入してきたか、といったことにテーマが絞られていたら、もっとよかったのだと思う。
近代において国家の政治システムは発達してきたし、かなり思索が費やされてきたのだろうが、現代において必要なのは、企業組織における政治の抑制システムではないだろうか。
われわれは企業という、新たなる人権を脅かすシステムに、近代政治のような秩序を与える必要があるのではないだろうか。
企業というのは、多くの人が気づかないでいる、顔のみえない現代の君主制のようなものではないのだろうか。
松藤民輔『脱浪費社会――大変動以後の潮流』
1995/5 ダイヤモンド社 1600円
大量消費社会にたいする根深い不信をもった著者が、このような社会ができあがった経緯を企業の歴史をひもときながら説明している。
コカ・コーラやディズニーランドの欺瞞を見抜き、著者がかつて勤めていた証券会社にいたときの疑問などが描かれ、わたしもひじょうに同意する。
著者は皆が行く方向と反対のことをやってきたそうである。
たしかにそれは集団自殺するネズミの群れのようなものだろう。
この著者がこれからどのような価値観や目標を、社会に呈示してゆくことができるのか、期待していたいと思う。
『トム・ピーターズの経営破壊』 1994/12 TBSブリタニカ 1600円
ブッとんだ本である。
わたしは経営とまったくかかわりがないが、この本は会社制度の枠組みにはめられた自分をとき放つ活力を与えてくれる意識革命の本でもある。
いままで一歩もレールを踏みはずしてはならないというのがふつうだったが、ピーターズは履歴書に何の空白もないやつを雇うなといっている。
アメリカと日本は、仕事から楽しさをとり除いてしまった企業が多すぎる、だから新しい創造的な活力は生まれてこないともいう。
そんな死にそうな、干からびた会社から、値段なんか関係のない、喉から手が出るほどほしくなるような商品が生まれ出てくるわけがない。
新しい創造や発想が必要になってゆく時代に、これまでの機械のような、指示に従うだけの企業組織はもう、ごみ箱に棄てなければならない、というのが、ピーターズの本書を貫くメッセージである。
海江田万里『サラリーマン絶体絶命 賃金崩壊』
1995/12 主婦と生活社 1400円
これからどのようなものがなくなり、どのような対策を講じればよいのか、といったことがまとめられていて、ひじょうにわかりやすくできている。
退職金はなくなるとか、保険もなくなる、マイホームが危ない、といったことの現況と対策が考えられているのがよい。
なにが危ないのか、全体的に捉えられるのがよいが、具体的な対策は甘すぎる、もっと180度の価値転換が必要になると思うのだが、なにかに頼るような人生設計はもう過去のものと覚悟しておいたほうがよいのかもしれない。
堺屋太一 (1935〜 本名は池口小太郎というちょっと拍子抜けする名前だそうである。
ペンネームの由来は堺市出身からきたらしい。)
『現代を見る歴史』 1987/9 新潮文庫 560円
現代とよく似た時代を、歴史のなかから検証する名著である。
歴史とはこのような読み方をして、はじめて価値をもつのではないだろうか。
米ソ対立とペロポネソス戦役を比較し、ローマ帝国とアメリカを比べ、経済だけに特化した日本を宋王朝に見、高度成長の体質を豊臣政権にもとめ、バブル期をアメリカ大恐慌前夜にみる。
やはりわたしが興味をひかれたのは、物質文明の落日をとりあつかったローマ帝国の没落と、人事圧力シンドロームにおかされた豊臣政権の章であり、現代において多くの示唆を与えるのではないだろうか。
『峠から日本が見える』 1982/8 新潮文庫 440円
この本も元禄の時代から、現代との類比をこころみた名著である。
元禄というのは江戸時代の成長がピークを迎えた年であり、高度成長を終えた現代と似ており、大凶作に転げ落ちるさまはそっくりである。
そして本書を貫く重要なテーマが、かつての権力層の「お米の経済」と、新興勢力の商人の「お金の経済」との拮抗である。
この古い勢力が政治力をたびたびもったために、産業革命の素地をもった日本は停滞してゆくことになったと著者はいう。
いつだって旧勢力が政治力をもち、経済の発展を阻止するものなのである。
現代でも官僚や大企業などの旧勢力が、時代の流れや経済の発展を押しとどめているのではないだろうか。
著者が危惧するのは、世論がかれらに好意的なことである。
世論を形成するのは没落勢力であり、日本ではこのような家系の滅亡史がひじょうに好まれるところがあり、ゆえに新興勢力――富をひとり占めしている人たちに悪評が浴びせかけられるのである。
でもこれこそが、経済の発展を阻止している元凶なのである。
最後の章に忠臣蔵と忠誠心という項目があるが、わたしは忠臣蔵の時代劇が大嫌いだし、庶民はたえ忍んでいたら、いつかお上が救ってくれるという「水戸黄門イデオロギー」というのも不快だ。
また著者が武士たちの集団主義をサラリーマンにまで普遍化するのは、行き過ぎだと思うし、この著者の全般にいえることだけど、政治史をあまりにも普遍化して、支配者層を拡大解釈しすぎだと思うし、庶民や社会史という下の視点から、ものを見ていないのではないだろうか。
権力や地位に群がる政治家たちだけが歴史を構成してきたわけではないし、庶民はもっとほかの価値観で生きてきたのではないだろうか。
このような政治史を普遍化することが、現代のわれわれを地位や優越競争に陥れてきたのではないだろうか。
つまりわれわれが教わってきた歴史というのは、政治や軍事に価値をおいたメンタリティや価値観の反映にしかすぎないのではないだろうか。
『風と炎と 上下』 1992/4 新潮文庫 約600円
この本はだいたい1992年からの世界情勢と、これから世のなかがどうなってゆくかと洞察した大部の書で、あいかわらず鋭い歴史洞察がはさまれながら、現代を概括している。
現代をみながら、歴史をひきだしてくる手腕はすごいものがある。
堺屋太一がどのようにして、このような歴史認識をものにしたのか、歴史自体にそんなに興味をもてないわたしは思うのだが、この本の下巻には、参考文献があげられている。
堺屋太一の著作は、同じようなことを語っていることが多いが、シャカもキリストも同じ言葉ばかりくり返したのだし(広告のプロという見方もある)、そのなかにとびっきりの果実があるのではないだろうか。
『組織の盛衰 何が企業の命運を決めるのか』 1993/4 PHP文庫
現在、あらゆる組織が危機におちいっている。
やはり組織が機能や目的のためではなく、構成員の保身や利益だけを求めるようになったところにその原因があるのではないだろうか。
組織は自分たちのためにあると思ってなにが悪いと思うだろうが、組織とはほんらい、客や外部のために存在するものであって、自分たちのためにあると思いはじめると、観念的に遊離しはじめる。
客の満足がみえなくなったり、内部の比較優位だけにかまけて、組織の危機的状況に関心がもてなくなったりと、外部から切り離されてしまう。
この本はそのような組織の「死にいたる病」を研究したものであり、著者の20年にわたる苦闘のおかげで生み出された組織論である。
『満足化社会の方程式』 1994/2 新潮文庫 520円
『世は自尊好縁 満足化社会の方程式を解く』 1994/7 新潮文庫 480円
前書では、平成不況が「享保」の時代に重ねられる章からはじまり、現在の経済の危機や問題が、語られてゆく。
日本はなぜつまらないのか、供給者を守るのではなく、消費者主権の国がつくられなければならないという。
続編の後書では、古い体制が崩壊し、新しい体制ができあがるまで10年かかるといわれている。
最初の4年は破壊、次の2年は模索、あとの4年は新体制の確立。
1990年からそれははじまったから、10年後にはどうなっているだろうか。
タイトルの好縁は、血縁、地縁、職縁と規定されてきた関係が、好みでつながる関係になってゆくことから、つけられた。
堺屋太一の著作には、いろいろ教えられることが多い。
佐伯啓思『欲望と資本主義 終りなき拡張の論理』
1993/6 講談社現代新書1150 600円
これは名著である。
われわれはなぜモノを買い、レジャーをし、そして資本主義は回ってきたのかということが、欲望の観点からのべられている。
資本主義というのは、まさに神秘や未知なものが象徴されたモノや商品によって、動いてきたのである。
ヨーロッパ人は、オリエントやアジアの神秘性が付与されたモノに熱中し、産業革命をおこしたのであり、われわれ日本人は、西洋文明が象徴されたモノを得ようとして、経済を発展させてきたのである。
だが現在、そのような欲望のフロンティアが消滅してしまった。
いったいこれからどのような目標や価値をみいだしてゆくのかと考えるさい、人々の欲望の変遷史を顧ることは、ひじょうに重要である。
インターネットという情報のフロンティアは、われわれの欲望を技術への欲望から、文化への欲望と変えてゆくのだろうか。
物質消費やレジャーというこれまでの欲望は、あまりにも「幼稚」すぎる。
尾崎護編『21世紀日本のクォヴァディス 上下』 95/9
大蔵省財政金融研究所「21世紀研」リポート ASAHI NEWS SHOP 880円
21世紀日本のクォヴァディス(行方・針路)を探った研究会の、知的洞察に富んだ、きわめてすぐれた本である。
自然環境の視点から文明の行方を探ったり、機械というのは、目的を固定しないと成り立たないといったことや、先進国は魅力的なテクノロジーを70年代以降つくれなくなっている、日本では「年齢差別」が、労働移動や雇用形態を規定している、などといった、きわめてすばらしい捉え方がのべられている。
日本や文明はこれからどうなってゆくのかと考えるさい、さまざまな視点から学ぶことのできる、すぐれた本である。
フランシス・フクヤマ『歴史の終わり 上中下』
1992/5 三笠書房 知的生きかた文庫 各巻500円
政治的な問題でかなり話題になったみたいだが、わたしはそれより、歴史は認知への欲望が動かしてきたという説にひじょうに興味をもち、人はなぜ認知を求めるのかといった根本的な社会学的・心理学的な問いのほうに関心が向かった。
わたしが探す限りでは、このことをテーマにあつかった社会学的、およびその歴史をとりあつかった書物は、なかなか見つけることができなかった。
わたしのまわりではたしかに人々はこの優越願望や対等願望によって動いているのが明瞭にわかるし、社会のなかの人々の行動というのは、すべて認知されることを目指していると思われる。
ブランド品であれ、車であれ、レジャーであれ、そういうことではないだろうか。
だが、なぜ人は認知をめざすのだろうか。
社会や経済において、人から価値があると思われることは、われわれに満足や喜びをもたらす。
社会が価値あるものと認めるものは、人々が欲しがるものであり、社会の進歩や進化にとっても、新しい世界を切り開いてゆくものだ。
だから、認知とは社会にとって、そのような人々の創造力をひき出すという点で、効果的な方法をもっているといえるだろう。
ただ、みんなと同じ価値を認められたいという「対等願望」は、大衆消費社会や民主主義といったものを実現させてきたが、未知の世界を切り開くという点では、その衝動を押し殺し、最後には、世界の停滞をもたらすのではないだろうか。
この課題が、現在の日本の問題になっているのではないだろうか。
認知は社会の進歩をもたらすが、同時にわれわれの価値のなさの苦しみをももらたす。
対等願望は、みんなと同じこと――サラリーマンやレジャー、消費、海外旅行やクリスマス、正月といったものに同調しなければ、われわれに強烈な価値のなさを味わわさせる。
たとえ、自分たちが羊の群れのようになさけないものだと思ってもだ。
そして、どうしようもなく、猿の群れのように他人と同じ行動に走らせる。
仏教では、この苦しみの消し去りかたを教えてれるが、これが社会の進歩にとって、よいことなのかはわたしにわからない。
人々から認められたり、価値あると思われることは、思考や心象に、満足や喜びをもたらす。
つまり頭のなかの「イメージ」が、喜びをもたらすのである。
だが、頭のなかの「わたし」とはたんなる「虚構」であり、「幻想」ではないのだろうか。
認知願望とは、頭のなかの「わたし」に価値を感じ、満足を得る、一種の「フィクション・ストーリー」ではないのだろうか。
歴史を動かし、たしかにわたし自身のエネルギーになってきたことも否めないが、この試みはかならず「失敗」するのではないだろうか。
なぜなら頭のなかの「わたし」とはイメージにしかすぎず、「霧」や「蒸気」のようなものであり、それは喜びやうれしさをもたらすが、なんら「実体」のあるものでもないし、「実在」するものでもないのだ。
「麻薬」のように、打っては効き目がなくなる自己の価値観を、反復的にとりもどそうとする「病」にわれわれは冒されているのではないだろうか。
広告やテレビに触発されて、商品やレジャー、海外旅行などを得て、しばらくは優越や同一という喜びを得ることができるが、すぐに消滅してしまい、またもやほかのなにかに頼らざるを得なくなるのだ。
認知願望とは、「シャブ中毒」ではないのだろうか。
仏教ではこのことを知っていて、思考を捨てさせるのではないだろうか。
◆
なお、『猿の惑星』というSF映画があって、子供の時のわたしにショックを与えたが、この映画も、「認知」がテーマになっているのではないだろうか。
両親を象徴するコーネリアスとジーラに、人間であるテイラーが知能と理性のあることを認知されようとするが、人類は核戦争をおこして滅亡しており、軽蔑する猿と、人間が同等であったという結末を迎える。
親に認められようとするのは子どものときの最大の関心事であり、この映画の結末は、認知の得られない子どもを象徴しており、そのために子どものときのわたしはおおいに惹きつけられたのではないだろうか。
ミルトン&ローズ・フリードマン『選択の自由 自立社会への挑戦』
1980/5 日本経済新聞社 2300円
忘れてはならない、肥大化する政府や官僚に警鐘を鳴らした本である。
年金や福祉制度、義務教育、政府の保護産業や規制といったものは多くの恩恵をもたらすと同時に、とり返しのつかないほど傷痕をわれわれに刻みこんでいったのではないだろうか。
「善かれ」と思ってやってきた政府の過保護や思いやり、もしくはわれわれの政府や親方日の丸にたいする過剰な期待や要求は、逆にわれわれをうちのめしたり、骨抜きやふぬけにしてきたのではないだろうか。
産業保護は経済の自由な流動化を阻害し、新しい産業に人材が移るのをとどめてきたのではないだろうか。
年金や福祉制度は若者を搾取するだけのシステムになり、また安定や依存だけをのぞむ若者のメンタリティを育んでしまったのではないか。
拘束や閉塞感だけのやたらに強い社会ができあがってしまい、若者に生きる活力や価値感を、このシステムは奪い去ってしまった。
この「ゆりかごから墓場」まで保障されたシステムが、若者たちにどんな重みとして感じられてきたか、計り知れないものがある。
フリードマンのこの本は、なぜこの社会がこんなに息苦しいのか、漠然と感じてきたわたしに、ひとつの解答を与えてくれた。
だが、ほかにこのような本を見つけようとするとなかなか見つからず、フリードマンの本もほとんど手に入れることができず、現在のところ、あまり評価されていないのだろうか。
行政改革が叫ばれている現在、この「小さな政府」が求められるべきではないかと思うのだが、政治にはうといわたしにはこの思想の受容がどうなったのかわからない。
自由な競争が貧富の差を生み出すというよりか、現在のところ、保護や保障されることが、経済の停滞やよどみをつくりだす時代になった、と思うのだが、専門家の評価がどのようなものかわたしにはわからない。
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「歴史の中に、「未来」をみいだすことができるか」
歴史の流れや歴史変化のおこった理由を知ることにより、未来を知ることができるのではないだろうか。 このページでは、文明論や社会史などの本をとりあげています。
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