BOOK REVIEW――思考のためのブックツール・ガイド
   仏教・インド哲学は、       世界を実体なきもの、「空」と見なすのか 
                                   1997/Spring 


      



   仏教・インド哲学系統は少しかじっただけで、この世界全般はよくわからないし、

  どのような歴史的経緯があったのかよくわかっていない。

   仏教の心理学的な捉え方、セラピー的なことを得ようと読んだだけで、

  宗教的な言説は、多くを見ないものにした。

   原典の現代語訳をおおく読みたいと思ったのだが、あまり手に入らなかった。

   まとはずれや思い違いが多々あるかもしれないが、

  これまで読んだ本について、思ったり、感じたりしたことを、以下に記します。




  『空と無我 仏教の言語観』 定方晟 講談社現代新書997 650円

      

    この本はひじょうによかった。

   わたしが、言葉や思考の実体化について探っているときに読んだ本で、

   そのことについての記述は少ないにしても、

   仏教がこのようなことを言っているのだと知ることができただけでも、

   得るところが大きかった。

    『般若心経』の内容を知ったのもこの本がはじめてであり、

   ひじょうに驚いた。

    物質的現象には実体がなく、その立場においては、感覚もなく、眼もなく、

   身体もなく、触られる対象もないというのは、

   自分の日常的経験からして、理解を絶している。

    言語や思考の認識が、「虚構」だと見なしているのだろうか。

    ナーガールジュナや唯識思想のガイドにもなった。



  『般若心経・金剛般若経』 岩波文庫 460円

       

    『般若心経』というのは、物質的現象にはすべて実体がない、

   感覚もなく、身体もなく、心もなく、かたちもなく、心の対象もない、

   ゆえに迷いがなく、老も死もなく、苦しみもない、

   という驚くべきことを短い文章のなかに語っているのだが、

   もちろんこれだけではその意味を理解することはできない。

    これは、言葉の概念における対象には実体がないということなのか、

   それとも視覚の対象すらも存在しないのか、

   ということを言っているのだろうか。

    『金剛般若経』というのは、くり返しの多い文章で、

   自己や生きているという思い、個体や個人という思いもおこらず、

   思うということも思わないということもおこらないことが、

   すぐれた人であると説いている。

    なんだかこれだけではその内実の意味が理解できないのだが、

   もう少しわかるように説明してくれと思うのだが、

   仏教とはこのようなものなのだろうか。



 『大乗起信論』(アシュヴァゴーシャ・馬鳴) 岩波文庫 620円

       

    この本はわたしがまだ宗教や仏教にたいする懐疑を

   もっていたころに読まれた本であり、読み進むうちにこのなかに出てくる文章に

   いくども驚かなければならなかった。

    われわれのふだんの感覚――外界はあり、世界は実在するという常識からすると、

   「革命的」な書物である。

    世界はすべて心がつくりだした虚妄であり、心の働きがとまれば、

   それらの現象も消滅するという。

    いっさいの形あるものは、心にほかならないから、

   外界の物質的存在は真実には存在しない、というのである。

    この世界は心があやまってつくりだした虚妄であるというのは、

   驚かざるをえないし、心の働きがなくなれば、その世界もなくなってしまうというのは、

   わたしにはまったく経験することはできないが、

   そのようなことがほんとうにありうるのだろうか。

    この本はこのように心と世界の非実在性にのべられた本であり、

   その内容はひじょうに驚くべきものである。

    わたしはあまり再読しない質なのだが、この本はなんども読み返すべき本である。



 『大乗仏典』 中公バックス 世界の名著2 中央公論社 1500円 

      世界の名著 2 大乗仏典 (2)

    この本は大乗仏教の経典が、抄訳であるけれども、いくつも収録されており、

   大乗仏教の概要を知るには、ひじょうに重宝する書物であり、

   ほかにこのような本をなかなか見つけられない。

    わたしは解説本より、原典を好み、ある程度の難解さに価値をおくので、

   まずもって原典を先に読みたいのだが、このジャンルでは、

   なかなかそれらを見つけられないのがひじょうに残念であり、

   やさしく書かれすぎた解説本は、幻滅ものである。

    なんでも解説によると、これまでの伝統的な仏教はほとんどが漢訳であり、

   つまり中国経由の仏典であり、インドのサンスクリット語やチベット語からの翻訳は、

   ヨーロッパをはじめ、百年くらいしかたっていないというのである。

    この本はインドの仏教がどのようなことを言っていたのか、

   知るには最適の本である。

    以下、抄録されている経典について、多くは省くが、感想をのべたいと思う。   


  『維摩経 ヴィマラキールティの教え』

      

    この経典は、シャカのベタ褒めや崇拝、空想的な物語構成には

   ちょっと不快なところがあるのだが、言葉の中身には学ぶべきことが多くある。

    肉体は幻のようであるといったり、

   座禅のときにはすべての対象に心が向かわないようにといったり、

   とくに判断や分別をやめ、不二にはいるところは、圧巻である。


  『宝積経 カーシヤパの章』

    収録経典のうち、いちばん気に入ったのがこの経典である。

    空性という思想にしがみつき、自分を飾りたてている人を戒めたり、

   愚かな人は色かたち、声、香り、といった世界をみずからつくりだし、

   迷いの世界をめぐり歩いているといったり、

   心は、幻や風や川、火や稲妻のようだとのべている。

    過去、未来、現在の心はとらえることができない、という言葉などに

   多くの感銘をうけた書物である。    


  『二十詩篇の唯識論 唯識二十論』 ヴァスバンドゥ

       ヴァスバンドゥ(世親)

    唯識とはどのようなことをいっているのかと知りたかったときに、

   これらの仏典を読んだのだが、収録仏典、ヴァスバンドゥの『存在の分析』は、

   えんえんと心や感覚の分析がおこなわれていて、

   電話帳を読んでるようで味気なく、これは幻滅ものだった。

    『唯識二十論』はなかなか恐ろしいことをいっている。

    世界は、観念や表象にすぎないとまずはじめに宣言され、

   色形のある事物が外界にあるのでもなく、実体があるわけではないといったり、

   対象は各瞬間に滅しており、見ることはできない、

   われわれは夢の中と同じように、実在しないものを実在すると

   勘違いして、暮らしているというのである。

    世界が実体として存在しないということは、なかなか恐ろしいことではないか。

    でも逆にいえば、われわれの悩みや苦しみは

   なにも存在しないということになるのではないだろうか。

                       *

    全体としては、論理学や論争が多く、わたしにとってはこれらを理解するのは、

   かなりむづかしく、難解なものが多かったように思われた。

    だが、外界の対象は実在しないという見解や空についての考えなどには、

   おおいに魅きつけられ、もっと深く理解したいと思った。



 『バラモン教典・原始仏典』 中公バックス 世界の名著1 中央公論社

       世界の名著 (1)

    『ウパニシャッド』や『バガヴァッド・ギーター』、『ヨーガ根本聖典』、

   原始仏典、『ミリンダ王の問い』などそうそうたる教典が入っており、かなりおトクな一冊。

    『ウパニシャッド』などわたしにとってひじょうに興味のある内容が多かったのだが、

   なんだか文化的背景が違うからか、かなり理解しにくかった。

    『ヨーガ根本聖典』はひじょうに重要なことが書かれており、気に入ったのだが、

   その内実の意味までつかみとろうとするのは、かなり困難で、残念である。

    『ミリンダ王の問い』は自己が、身体や認識なのですかとつぎつぎと問うてゆく、

   ひじょうに教えられることの多い書物である。

    かつてわたしは学校という「共同幻想」を分解してゆくときに、

   建物やグラウンド、職員室が、学校なのかと問うていった方法と

   まったく同じであったことに少々、驚いた。

    もしかして子どものころに絵本かなにかで読んだのかもしれない。



 『わが心の構造 『唯識三十頌』に学ぶ』 横山紘一 春秋社 3296円

       

    唯識思想のヴァスバンドゥの著書『唯識三十頌』をかなりやさしく、

   ていねいにわかりやすく説明している。

    唯識というのは、対象も世界もあるのではなく、

   ただそれらは心がつくりだしたもの、心のみが存在するのだという説を唱えており、

   アーラヤ識とマナ識という無意識の存在も表明している。

    われわれの見たり、感じたりする世界は、心がつくりだした幻にすぎないのか、

   唯識思想はこのような疑問をわれわれに抱かせる。

    唯識はおしげもなく、わたしの見ている目の前の対象は存在せず、

   ただ心のみが存在するだけだと言い切る。

    ひじょうに興味の惹かれる唯識を、この書は説明している。



 『教典ガイドブック』 宮本啓一 春秋社 1550円

       

    仏教の右も左もわからず、どんな教典があり、どんなすぐれた論典があるのかも

   わからなかったわたしが、全体像を理解するために参考にした本。

    原始経典、大乗経典、中国・日本の経典など61の経典が紹介されている。

    このガイドブックはひじょうによかったが、

   ものすごく残念なことは、マークした経典が、書店でぜんぜん見つけられないことだ。

    ここから仏典を読み進めようと思っているものには、おおいに不満の残るところだ。

    ヨーロッパの哲学・思想は大きな書店に行けば、ずらりと並んでいるのに、

   仏教書ではほとんどが現代人の書いた解釈本ばかりだ。

    まずはなによりも原典からわたしは読みはじめたいのである。

   (漢文もサンスクリット語も×。現代語訳でないと読めない)。   



  『禅』 鈴木大拙 ちくま文庫 500円

      

    文庫本ということで気楽に手にとって読みはじめたが、

   ひじょうに名著である。

    鈴木大拙は海外に大乗仏教をおおいに広めた人で、

   ケン・ウィルバーやラジニーシなどが高く評価しており、

   この本は英文の著書を翻訳したため、かなり読みやすい。

    知性や言葉、概念などが、いかにわれわれを実在から遠ざけるか、

   ひんぱんに警告しており、これらの過ちを言葉を尽くして説明している。



  『無門関』 岩波文庫 520円

  『臨済録』 岩波文庫 460円

      

    まとめて禅の公案集を紹介させてもらうが、

   なぜならわたしにとってはこの公案の意味がほとんどわからないからだ。

    弟子が問えば、師が殴り、叫び、鼻をつまみ、

   質問に答えず、そっぽを向いたり、まったく関係のない話をはじめたり、

   もうめちゃくちゃの、ドタバタ喜劇が進行しているようにしかみえない。

    質問や言葉の無意味さを悟らせようとしていると思うのだが、

   わたしにとってはこの深みを理解するのは、まだまだ遠過ぎるように思う。



  『はじめてのインド哲学』 立川武蔵 講談社現代新書1123 650円

        

     インド哲学をヴェーダ、ウパニシャッドからはじまって、ブッダ、大乗仏教、

    ヴェーダーンタ哲学、タントリズム(密教)と、歴史的状況とからめながら、

    かなりわかりやすく紹介している。

     この本のよいところは、かなり日常的な感覚から出発しており、

    またブッダの登場が当時のバラモン哲学にとって、どのように革新的で、

    アンチテーゼだったのか、理解させてくれるのは出色であると思う。

     このようにある思想がつくられたり、必要とされた状況が説明されるところは、

    この書のひじょうに優れたところである。



  『ブッダのことば スッタニパータ 岩波文庫 720円

        

     仏典のなかでもいちばん古いとされる聖典なので、

    じっさいのシャカの言葉に近いものが記されているかもしれない。

     この本の中の教えを守れば、ひじょうに清らかな心になれるかもしれないが、

    現代社会のありかたとあまりにもかけ離れており、実践できそうにもないなと思った。

     当時の思想家たちを批評して、相対主義をとなえているのはちょっと驚いた。

     だから、迷妄に陥らないというのである。

     嘆き悲しむのは無益であること、過去も未来も思いわずらうなといった言葉は、

    ひじょうに実際的である。






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