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 ■061105書評集 古代レイライン探究

GREAT BOOKS

 ■性交に象徴される太陽の死と再生            2006/11/5

 『天照大神と前方後円墳の謎』 大和岩雄
 六興出版 1983/6 1200e(絶版)

 


 神社や遺跡が一列に並ぶ「太陽の道」を知って、太陽信仰の世界観を知りたくなったのだが、この本はその太陽信仰の内実をかなり垣間見せてくれる本である。ただ、日本の古代史が中心だが、メソポタミアやエジプト、マヤの太陽神の話まで多くの事柄が狩猟されていて、頭の中がだいぶこんがらがるので、もう少し簡潔に要点をまとめてほしかった気がする。

 強引にまとめてしまうが、この本の骨子は太陽神の死と再生は、人間の性や子宮に重ねられるということではないかと思う。エジプトのヌート神は冬至に口から太陽を呑みこみ、女陰から太陽を生み出すと考えられていた。また、バビロニアでは太陽は夕方西の地平に落ちて、夜は地下をとおるが、そこには宇宙の水があるから船を使って翌日の東の空まで運ばれたと考えられていた(福岡の珍敷塚古墳にも描かれている)。太陽神のさまざまな神社や祭祀はこの世界観が象徴されていると考えられるのである。

 『日本書紀』には稚日女(わかひるめ)尊が機織の梭で女陰(ほと)をついて死んだ話と倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が箸で女陰をついて死んだ話が出てくる。これは太陽がいちばん弱まる冬至の日に太陽が死んで再生する話と考えられるのである。神武天皇の皇后は大物主神が丹塗矢になってセヤタタラ姫の女陰をついて生まれた子であると『古事記』に書かれている。性交によって冬の太陽は新しく生まれ変わり、同じように人間は神に生まれ変わるのである。

 むかし太陽は東の洞窟から生まれ、西の洞窟に没すると考えられていた。そしてその再生の場である洞窟は女陰であり、子宮の象徴でもある。加賀の潜戸には水難で死んだ子どもたちのための人形や玩具が供えられているという。再生は洞窟で願われるのである。慶州の吐含山の石窟内の仏像は冬至の日に文武王陵からの朝日が冬至の日にさすようにつくられている。つまり文武王は太陽に再生するのである。

 このように太陽の死と再生は人間の女陰や子宮、または性交と重ねあわされて、願われていたのである。性交というのは再生や豊穣の願いであったのである。埴輪に男根や女陰がほどこされたものがあったり、またこの本にたくさんの性的供儀の話が出てくるが、旅人に女性がさしだされる話や結婚の媒酌人が花嫁を三日あずかる話、祭りや雑魚寝で男性に許さなければならない話や、遊女が神事に参加する話、ギリシャの神殿で操を売る話などが出てくる。性交とはこんにちの私的所有財産の禁欲観では理解できない話だが、かつては豊穣や再生を願う祈りでもあり、また神と交わることでもあったのだろう。

 古代の人たちは太陽は冬至の日に死んで生まれ変わると考えられていた。人間にとって新しい生命の誕生は性交によっておこり、子宮で育まれる。だから太陽の死と再生は人間の女陰や性交に重ねあわされて考えられることになったし、性交は豊穣や成長の願いや祈りになったし、また死は太陽のように神となって生まれ変わることでもあったのである。太陽の死と再生は人間の死と再生でもあったのである。

 古代人の死と再生の世界観は、太陽の死と再生とパラレルであったのである。このような世界観から古代人が神社や古墳、太陽の道などにこめた祈りの気持ちというものが見えてこないだろうか。





 ■空間の聖性の開拓史              2006/11/11

 『前方後円墳と神社配置』 三橋一夫
 六興出版 1987/12 1365e(絶版)

 

 神社は三角形同士で結びつけられるという『神社配置から古代史を読む』のつづきである。この巻では神武の東征の足跡から、前方後円墳の位置や設計の方法がさぐられている。

 地図や空間に隠された設計や意図がこめられていたことを知ることはおもしろい。それは知らなかったことを知る好奇心の第一の楽しみであるし、空間配置に意図があるという意外な知の価値づけに驚かされるからである。

 ある場所に住んでいて、ここにいけば都会、あそこにいけば田舎という序列をわれわれは知るだろう。しかしたいがいは序列も意味もないのっぺりした空間が茫漠と広がるだけである。古代人はそこに強烈な価値の序列づけをほどこした。神と人間、聖と俗、高貴と低俗といった序列を、土地に付与したのである。そのような聖性をおびた空間を知るということは、こんにちの均質化した空間からは感じられない聖俗が垣間見れて、均質のつまらなさを払拭してくれるように思うから魅かれるのだろうか。

 それにしてもこの本でさぐられている三天法の三角形の意味がどうもわからない。正三角形はそのまま円になり、太陽を象るのならその意味はわかる。しかしその三天法がひかれた地図をみていても、支離滅裂に三角形がならんでいるようにしか思えない。三角形でなければならない意味が腑に落ちない。

 この本では地図に線をひくことがおもに追究されているので、そういう理論面、意味面での説得力が弱いのである。三角形を引いた後でないと、見えないなにかは見えてこないのかもしれないが。

 したがってこの本は三角形のつながりに方式があることから、この土地は出雲族や安曇族、住吉族が開発した土地ではないのかという話になってゆく。住吉大社は出雲族、近畿地方の大部分は出雲系の開拓地、明石だけが住吉系という話になる。それはそれで興味の魅かれる話なのだが、神社や神の聖性の意味がまったく探られないのは、いちばん重大な謎が放っておかれるのに等しい。なぜその土地や神社は神性をおびたのか、私はそれをいちばんに知りたいと思うのである。

 ちなみに神武は宇佐、安芸、吉備などに寄ったが、そこは住吉族の土地ばかりであったこと、福岡は安曇族、北九州は住吉族が居住していたなどが三天法からわかるという。古墳の位置だが、地図を見るとめちゃくちゃな方向に並んでいるように思えるが、さいしょは山だて、つぎに神社だて、古墳だてにかわってきているという。磯城古墳群では山だて、佐紀古墳群では山・神社・古墳だての併用、古市古墳群と百舌鳥古墳群では古墳だてがメインになっているという。

 個人的に興味をもったところが古来は住吉大社より要であったらしい東住吉区の山阪神社は仁徳陵の向かう先でもあること、百舌鳥古墳群の位置決定に重要であった大鳥大社、船待神社、百舌鳥八幡宮などである。近くなので行ってみたり、地図で確認したりしたいと思う。

 知識を空間で位置づける楽しみは行動と知識欲がいっしょに満たされることで、野を駆け巡った少年のころの神秘的な世界観をかすかに思い出せるのが楽しみなのである。そういえば、私は子どものころにカメをとりにいった用水路でこの先になにがあるのかとか、山の向こうにどんな世界が広がっているのかとよく神秘に思ったものである。

 ▼あらたに地図作成ページを発見。地図Z。ロカポが復活しないのならやり直さないといけないな〜。
 
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 三天法による神社配置の考察―「聖三角形」が語る古代史の謎
 







 ▼大阪古本屋マップ               2006/11/18

 地図を組み込みましたが、正確な場所はかなりいい加減です。だいたいこのあたりにあるかなと? 多くの情報は書き込めませんので、このへんで。

 

 くわしいことは、060325断想集 2006/4/16で。すいませんが2番目のエッセイ「大阪古本屋めぐり」に書かれています。





 ■生命の豊穣と秩序を司る天空の王       2006/11/18

 『天と王とシャーマン―天に思いを馳せる支配者たち』 E.C.クラップ
 出版文化社 1997 3500e

 


 なぜ古代の王たちは天空や天体にあれほどまでに関心をもったのか。なぜ王たちは天の承認をうけなければならなかったのか、または神にならなければならなかったのか。そのような問いの接合部としてこの本は重要だと思った。いわば天と王はどのように結びついたのかということだ。

 古代人の思考には生命の豊穣をもたらすものはなにか、またはその欠乏の原因はなにかという思いがあったはずである。人間にとって生命の誕生をもたらすものは性交であり、性器である。したがって大地のあらゆるところに性交や性器のしるしが求められた。

 「土地を耕す人なら誰でも、空から降ってくる雨を、あたかも天空の神が地上を生命で満たすために落とす精子のように受け止めることだろう。地下水が出てくる泉やわき水、さらにはその水が流れ行く先にある湖などは、暗い地の中に秘められた生命の揺り籠たる大地の子宮の出口である。水は月経の血のごとくに大地の身体を離れ、生命誕生の新しいサイクルが始まったことを教える。やはり、水は乳房から出る乳のように大地の身体を離れ、生命を育む」

 「降水の少ないエジプトでは、豊穣をもたらす精子はナイルの水であった。ゆえに、エジプトの大地は男となり、逆に空は女となって女神ヌトが登場する。夜毎、彼女は星を産み、明け方それを飲み込んだ。朝になると太陽が彼女の子宮から顔を出すが、夕暮れになると彼女に飲み込まれてしまい、今度は再び星たちが産み落とされた。女神ヌトは、両手と両脚を東西南北の方向に突き刺し、テントのように夫ゲブの上に覆い被さる。ゲブは大地である。彼は、自らの股間を流れる川の豊穣をもたらす力によって、天空の神である妻を身ごもらせる」

 まるでフロイトの汎性欲論のようなものだが、人間や動物にとっての生命の誕生は性交によって生まれるのだから、自然界にそのような原理が求められるのは理にかなっているといえる。そして岩石の穴や洞窟は、母なる大地の子宮の入り口として聖なる場所になってゆくのである。そこで豊穣をもたらすための儀式がおこわれたり、または神に捧げる貢物や性交が捧げられたのだろう。神々は大きな犠牲を払って雨や生命の豊穣をもたらしたのだから、人間も血を流して生け贄で応えるという思いも生まれてゆくのである。

 豊穣をもたらす生命や季節のサイクルは太陽の日の出・日没の場所で予測できたし、また天体の観測によってあらかじめ知ることができただろう。それは神々の秩序や規則を知ることであり、神々の意図や思いを知ることでもあった。そして王や観測者は神々の意図をつたえる者として、権力の集権化をにない、または神々の承認をうけたものとされていったのだろう。生命の秩序や豊穣をもたらす神の使いとしての王、またはそのサイクルを知る王は、天や神の承認をうけた者として祭り上げられていったたのだろう。

 このへんのところは、この本はあまりにも世界中のおおくの事例が集められているため、うまくその箇所を結びつけられない。この本は事例のコレクション過ぎる本である。

 この本は460ページにおよぶ二段組の大部の本で、世界の事例をさまざまに集めて並べているのだが、原理・原則の追究がとぼしいため、よくわかったということにはならなかった。記憶能力の悪い私は新しい章、新しい事例を読むたびに前に書かれていることを忘れてしまって、なにが書かれていたんだろうと頭の中で像を結ぶのに失敗するのである。私は事例を並べ立てられるより、原理・原則の要約を知りたいタイプ、というよりか、多すぎる事例を記憶にとどめておけないタイプなのである。

 この本はかなりの大部なので、興味を持続できる人向けの本、というか、すでに在庫稀少の本である。なお、著者のE.C.クラップは天文学者で、グリフィス天文台長である。天文学がかつては権力にいちばん近い場所にいた時代、または王にでもなれた時代の天文学の輝かしい記憶をたどった本ということになるのだろう。天文学は太古の学問の根源であり、最大の哲学探究であった時代が、知の起源にあったのだろう。

 現代人は天体と無関係な生になって久しい。天空から切り離された人生は矮小で、宇宙の存在を忘れたちっぽけな生に成り下がっている。宇宙をふくめた人生観を生きられればいいなと思う。現代人が宇宙をとりこもうとすれば、UFOとかのアヤシい話として排斥されてしまう。科学的な世界観は人生のロマンがない卑小な人生でもあるな。





 ■穀物の死と再生                 2006/11/19

 『飛鳥とペルシア―死と再生の構図にみる』 井本英一
 小学館創造選書 1984/6 880e(古本)

 


 なぜ古代人はレイラインにこだわったのか。冬至や夏至、春分・秋分の日になんの意味があったのだろう? どうやらその根底には「死と再生」のテーマがあるようなのである。

 太陽はその力の弱まる冬に死に、あらたによみがえる。したがって冬至のラインは死者の国へのラインであり、太陽はつぎの朝、東の空によみがえるように、天皇や豪族にもその願いがこめられた。さらには神となって。方角を知ることは天皇が神になるために必要な知識だったのである。

 それで死と再生が語られているらしいこの本を手にとった。ペルシャやひろくユーラシアの古代信仰がとりあげられているこの本は、その基礎知識さえ持たない私には難しいところもおおくあった。もちろんイザナギやスサナオ、当麻寺中将姫や聖徳太子などが語られているから親近感はわいたが。

 日本とぺルシャの神話や文化につながりや接点がある話にはなんの疑問もないと思っている。太古から人類は交流や大移動をおこなってきたはずなので、たかだか二千年前の文化伝播なんか当たり前だと思っている。太古の日本が文化的に孤立していたなんか考えるほうがおかしい。

 この本の死と再生の主役は太陽ではなくて、穀霊である。穀霊は秋になって、急に鎌で切り殺され、いわば非業の死をとげるのである。そして春になると復活する。だから古代の西アジアでは春のはじめに穀霊の復活と豊穣が願われたのである。この死と再生のドラマがユーラシア大陸の神話となって共有されていたのではないかということだ。

 イザナギとイシュタルの冥界下りはそのような穀霊の死と再生が象徴された話だと思えるのであるし、スサナオが境界を破壊したりケガレをまきちらしたりしたのは人為的な死と再生をうながしたと思われるし、聖徳太子一族の忌日は冬の祭りの枠組みの中に入っているし、キリストの非業の死と復活も、西アジアの古い植物生長儀礼の一つのあらわれだと思われるのである。世界的にみて、穀霊の死と再生は共有されていたのである。

 それにしても穢れの話は胸が悪くなるほどだ。アマテラスの冬至の死と再生の儀礼の時には床に糞がまかれたが、むかし日本でも新生児誕生の七日目に汚物を食べさせる真似をしていたそうだ。イランでは墓土に入れてやる。人為的な穢れによって死者の再生をうながす行為であるそうだ。

 破壊によって秩序がもどってくる。死によって再生がおこる。ローマのユピテル神殿では血の供儀がなされ、血や内臓がまかれた。そうして神の再生を祝ったのである。

 「人類は農耕を知った時期、動物や人間の肉体が、地中に埋められると、植物の生長に大きな力を与えることに気づいていた。共同墓地にある一本あるいは数本の樹木が、周囲を掘りかえされて埋葬がおこなわれていくうちに、巨大な樹木に生長しそれが父祖の霊、こだまの宿る神聖な樹木であると考えられるようになったのも自然のなりゆきであった」

 穀物の死と再生、そして破壊と復活がこのエピソードからおおく理解できるように思われるし、大樹に祖先の霊が宿ると考えた由来もわかるエピソードではないか。人類の死と再生は、穀物の死と再生にクロスオーバーされ、そしてこの世界もその規則によってサイクルするのである。

 穀物の死と再生にこの世界が象られていたとみることが、古代信仰の重要な要であるとみることができるのではないだろうか。





 ■なぜ岩は祀られたのか               2006/11/23

 『巨石文化の謎』 ジャン-ピエール・モエン
 創元社 知の再発見双書 1998 1400e

 


 現代人の感覚からしてみれば、石はただの石である。意味なんてほとんどない。かずかずの巨石遺跡を築いてきた古代人は石にどのような意味を込めたのか、さっぱり理解しかねる。

 日本の古来の神社や太陽崇拝の聖地には盤座(いわくら)や巨岩が祀られている。いったいなぜ太陽と巨岩は結びつくのか。太陽にどのような意味がこめられていたのか。なぜ岩は祀られたのか。私としてはさっぱりその感覚がつかめないのである。

 この創元社の「知の再発見」双書は図版をたくさん多用したシリーズである。まずは巨石文化がどのようなものであったか、目で確かめるにはひじょうに好都合の写真集である。

 ヨーロッパやイギリスに点在するこれらの巨岩遺跡の写真をみて、ますますわからなくなったというのが感想である。意味も、感情も、知識も、まったくつたわってこず、混乱の度合いはますばかりである。

 こういう神秘的な謎が知識探究のはじめにあるということで、この本を閉じることにしよう。謎の好奇心を忘れた知識の教育は知識なんてものではない。





 ■南南東30度ラインに意味はあるか       2006/11/26

 『方位と選地の謎―辰、巳、戌、亥 恵方の構造を探る』 大河内俊光
 新風書房 2005/11 2940e

 


 南南東30度ラインに古跡や旧跡がならぶという。私はいまレイラインを地図に引くことに熱中しているので、同じようなことをしている人がいるんだなと思って読むことにした。

 このラインは道教や『易経』によると、「天を統べる」ラインらしい。古墳時代や飛鳥時代、平安時代や戦国時代、霊場などの地図上に引かれたラインは、率直にいえば、あまり意味があるように思えなかった。私が易経などの方位観の知識がほぼないのもあるが、レイラインのような具体的な根拠がとぼしいように思えるのだ。あまり重要な意味も、興味も、駆られなかった。

 著者はアマチュア史家で、この本はジュンク堂の地理学の棚で手に入れたが、新風出版というのは自費出版も出しているから、そういう本かもしれない。

 ひとつ、たいへんいただけないと思ったことがあって、この本の史跡や神社仏閣の本文をほぼほかの本から引用転載していることだ。ちゃんと自分の言葉で、このラインの意味を語りながら、史跡の紹介をしてほしかった。10ページか、20ページくらいしか自分の言葉で語っていない。これではただの個人蔵のスクラップ・ブックである。

 著者は「太陽の道」についてはひと言も触れていなかった。そのラインとの関係はどう思うのだろうか。

 ▼こちらが南南東30度ライン(奈良篇)です。
 
 

 説明すると、平城宮跡から長谷寺が結ばれ、櫛山古墳と三輪山、倭迹迹日百襲姫尊命大市墓と熊ヶ岳、法隆寺と耳成山、阿武山古墳と多武峰、巣山古墳と畝傍山、藤原宮跡と宮滝遺跡、橿原神宮と高取山、牧野古墳と忌部山、新山御陵と壺阪山と結びつけられるそうだ。さいごの2ラインは見つけらなかった。

 はたして古代の王朝人はこの方角に意味をこめたのでしょうか。作為か、偶然か。それ以前に私には道教の方位観自体にあまり価値を感じられなかったが。




 ■大河内俊光『方位と選地の謎』の南南東30度ライン(大阪篇)    2006/11/25

 このラインになんの意味があるのだろうというのが率直な感想だ。『易経』によれば、よい方角らしい。「天を統べる」ラインだそうだ。

 

 たとえば、そのラインでは難波宮と葛城山が結ばれ、茶臼山古墳と金剛山が結ばれる。仁徳稜では陶器山、履中稜では高倉台宝積院、黄金塚から岩湧山が南南東30度ラインで結ばれるというわけだ。

 太陽の道なら冬至や夏至ラインが結ばれ、太陽崇拝や暦のうえで聖なる意味が理解しやすいのだが、『易経』などの方位観はいまいちぴんとこない。はたして古代人はこの方角に意味をこめたのでしょうか。





 ■村々の中の小天皇             2006/11/29

 『王権と日和見――宮田登 日本を語る〈10〉』
 吉川弘文館 2006/11 2600e

 


 神社仏閣や古跡が地図上にならぶレイラインの意味をさぐろうとして、村の日和見(ひよりみ)という存在をとりあげているこの本を読んだ。

 しかし宮田登がめざしていたことは天皇制の批判的検討であり、中央集権に対抗する村の権力者としての日和見という存在をさぐることであったらしい。なぜ日本の権力構造はひっくりかえらないのかという70年代学生運動のころのようないらだちをもっていたようだ。

 そういった問題意識から王権論、つまり日本の天皇はどうやって生まれたか、または日和見という存在とどう関わっていたのかという問いを立てているようだ。

 私としてはこのような天皇論はほぼ興味がないし、無害な「ファミリーの肖像」と化したげんざいの天皇にそのような問いはすでに必要ないと思う。私は古代のロマンとしての権力の起源と生成を知りたいだけであると思う。

 私はレイラインにどのような意味がこめられていたのかを知りたいだけであるし、現代でも知られる村の日和見という存在がどのようなものであったか知りたいだけである。

 宮田登によると村の中に魚見とか日和見という役は一人か二人必ずいたそうである。伊豆海岸の西海岸部の村には岬から海をながめる老人がいて、魚の群れをみつけたり、または潮・風・空・雲の流れをみて今日明日の天候を知ることができたという。大学ノートに天候や事件をつけていたそうだ。そういった存在が村の物知りや調整役としていたそうなのである。レイラインが重要であった名残がこんにちまでつづいていたということだ。

 沖縄久米島には「太陽(うてだ)石」があり、この石から太陽の日の出の位置を観測していたそうだ。種子をまいたり田植の時期になるとその太陽石のところに来て日拝みの唱詞をとなえ、時間の変化を確認していた。古代におこなわれたと思われるレイラインの風景はまさにこんにちまで残っているのである。

 太古、このような存在は時間や季節を管理し支配することにより王権や天皇制につながっていったのだと考えられる。地理上にみとめられるレイラインの痕跡はそのような原初のかたちを現代にまで刻印しているのではないかと思う。そして小さな権力者としての日知りは村々の中に残っていったのである。





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