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 ■060903書評集



 ■考えは現実になる。                   2006/9/3

 『マーフィー 眠りながら巨富を得る』 J.マーフィー
 知的生きかた文庫 1972 619e

 


 眠りながら巨富を得るというのは、成功や富を実現したように潜在意識に思い込ませれば、その成功が現実に実現するということである。棚からぼた餅的な発想でないわけではないが、努力や勤勉がすっとばされているような気もするが、まあこの心の法則は真実でもあるのだろう。

 私たちは自分の考えていることが現実になるという心の性質をもっている。心理学の交流分析では人生脚本といって、親からおまえはこんな人間だといわれると、一生そのような人間を演じるのだという考えがある。マーフィーはこのはたらきを成功や富のために用いようとしているのである。

 あたかも実現したように潜在意識に刻み込むと、そのような現実が後からやってくるのである。成功や富や幸福にそのような心の法則を用いない方法はないだろう。

 ぎゃくに否定や批判ばかり考えていたらそのような現実をつくることになるし、欠乏や貧困を思い浮かべてばかりしたら、じっさいに欠乏や貧困をひきよせることになってしまう。あなたの日ごろ考えていることがあなたの現実なのである。

 考えるということは、すでにしてこの世界の現実である。あなたの世界の中では、その世界しか存在しないのである。すでにあなたはそのような世界を現に生きているのである。現実にひきよせるのは時間の問題だろう。心理学では予言成就という言葉があり、まさにこのことである。聖書では、「私がおおいに怖れていたことが私にふりかかった」(ヨブ記)といっている。否定や欠乏ばかり思い浮かべるのではなく、成功や幸福を思い浮かべない手はないというものである。

 私たちは考えが現実をつくるという法則を知らずに、よういに否定や批判、欠乏ばかりに目を向けがちになる。それが現実になるという結末を知らないからだろう。または批判していると自分が偉い人間になった思い込むもできるし、楽しいことより不平不満に目を向けることのほうがラクだからだろう。ニュースはそのような面ばかり見せる。そして自分の現実をそのような否定的なものにつくりあげてしまうのである。

 この心のカラクリを知ったのなら、私たちの考えかたというものにもっと注意深くなることに気を使うようになるだろう。私たちは心に関して、車のハンドルの存在を知らずに、アクセルを踏みつづけるようなことをしているのである。ハンドルというのは考えることの内容や種類のことである。

 なお、マーフィーはキリスト教である。神に祈る言葉がしょっちゅう出てくる。しかしキリスト教的な本というよりか、自己啓発がメインであるから、神かがり的な言葉は気にする必要もないだろう。というか、宗教というのは、いつでもわれわれに自己啓発、または心の有効な用いかたを教えてきたのだろう。宗教は無条件の服従をきらった近代の政治的人間がその側面を嫌悪しているだけなのである。心の利用法まで排斥するのは、医者に服従するのはいやだから医者を排斥するのに似ている。





  ■私益以外の生き方はないのか。          2006/9/10

 『私たちはどう生きるべきか―私益の時代の倫理』 ピーター・シンガー
 法律文化社 1993e 3000e

 


 現代の社会は自分自身の物質的な私益を追求する以外に、このために生きるという目的をもっていない。われわれの仕事の唯一の目的は、「ずっしり重い金銭と家財を持って墓に入ること」(ウェーバー)なのである。アメリカの鋭い観察者トクヴィルは「このように金銭の愛着が人の気持ちを強くつかんでしまった国を、本当に他に知らない」といっている。

 人生は富や物質の獲得のためだけにあるとはとても思えない。だけどそうしない食べていけないシステムの中に私たちは生きているし、たとえ街中にホームレスがいっぱい増えたとしても、私たちは私益以外の営みを抑制される世の中に生きている。貨幣経済は自分の生きる糧を自分で稼ぐことを強制することによって、人びとに強制的に仕事に従事させる社会である。だからそこから落ちこぼれる人を救う論理をもたないのである。

 アメリカの重役の給料は平均的な労働者の85倍、または160倍にもなっているという。「飢えで死にかかっている者に食物を与えなさい。もし食物を与えなかったら、あなたはその人を殺したことになる」(アンブロシウス)といった中世西洋の宗教的倫理は、カルヴァンにより富は神の救済のしるしとなったのである。現在では景気浮揚のため経済学者がその承認をあたえる。

 ピーター・シンガーはオーストラリア生まれの倫理学者である。動物解放の活動家らしい。この本は私益以外のなにか人生の目的はないか、それは環境破壊で不可能な生き方になっている、といったことを探った本である。350ページのびっしりとした本であるが、長さを感じさせず、議論の筋道を楽しめる本である。ただ私としてはシンガーの奨めるような倫理的な生き方といったものがいまいちぴんとこなかったように思う。個別的な論理にはおもしろいものがあったが、全体としてははっきりとした輪郭が見えにくい本のように私には思えた。

 「勝ったからといってわれわれは満たされない。だから繰り返し繰り返し勝たなければならない。成功の味は、単にもっと多くの成功をという気持ちをあおるだけだ。負けた場合には、次こそ成功しなければならないという強迫観念がいやます」――ヨット競技者の言葉である。

 オーストラリアのアボリジニなどは、「彼らは所有しているものをすべて持ち運ばなければならないので、物質的な財を獲得することは、彼らの人生において大きな役割を果たしていない」

 「世界の人口の70パーセントは、家族や部族への忠誠心のほうが私的な目標に優先する社会に生きている」

 私益や物質的な富だけを求める人生というのは、やはりこの貨幣経済のシステムのせいなのだろうか。貪欲に私利私欲にならないと、不況になったり景気が沈滞すると煽られる。そして意味のない新製品をつくったり、買いつづけなければならないのである。ホームレスが増えつづけようが、会社での部下や同僚が安い給料、低い待遇で働かされているのを目の当たりにしながらも、私たちは自分ひとりの高給と物質的財をもとめつづけなければならないのである。おおよそ倫理的な生き方とはいえないし、人生の目的とはとても思えない。やはり貨幣経済のせいなのだろうか。

 社会主義は倫理的な生き方だと思われた。しかしそれは権力の独裁と経済の沈滞をもたらした。福祉国家にしても赤字累積と個人の無気力と依存心をもたらした。ふたたび私益と貪欲が賞賛される世の中になった。

 貨幣経済やシステムがこのようなものであろうと、人はたった一度の人生を価値のある意味のある生き方にしたいと思うはずである。金儲けや見せびらかし消費だけが人生の目的ではないと人はふと立ち止まるはずである。人より豊かになったり、勝ったりする人生にそんなに意味があるものか。そのほかの生き方はないものか。私たちは本当に意味のある人生を送っているのだろうか。いつまでも胸に抱えておきたい重要な問いである。





 ■難しすぎた。                  2006/9/12

 『現代倫理学入門』 加藤尚武
 講談社学術文庫 1993 900e

 


 これは難しすぎた。倫理の具体的な例が多ければわかりやすかっただろうけど、原理的な理論になるとかなりわからなくなる。論理学や言語学に近づいてきて、そこからはさっぱり理解しかねた。数学の証明問題に近いといったらいいか。ミルやカント、ベンサムらの学説などの紹介は有益だったけど、まさか私はここまでわかりにくいとは思わなかった。不覚である。

 「他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」「貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか」「科学の発達に限界を定めることができるか」といった章立ては魅力的である。しかし内容はいかんせん難しすぎる。

 でも倫理の問題はもっと知りたいと思う。自分が生きてゆくうえで倫理的問題は一時たりとも避けて通れない問題であると思うからだ。めげずにまた倫理学の本に挑戦したいと思う。





 ■新書ではなくて雑誌レベル。           2006/9/16

 『おんなの浮気』 堀江珠喜
 ちくま新書 2006/8 700e

 


 なにか漠然とおもしろいかもと思って買ってしまったが、たいしておもしろくもなく、啓発されるところもなかった。

 雑誌の延長のようなエッセイがつづくだけの新書である。データで分析するなどの学問をほとんどしていない。この著者は文学研究なのか、ほとんど社会学的視線がない。だから浮気したいかな、してもいいかな、とさまよっているような文章で、そんな自己や世間の風潮をつきなはして冷静に客観的にながめる視点がない。これは社会学者に料理してほしい題材だろう。

 一婦一夫制と人間の生態はしっかり合致するのかといった論考あたりならよかったかも。雑誌のような扇情的な文章なんて読みたいとも思わない。自己を客観的に見たり、世間の風潮を反省するような視点が得られないと、学問をした気にもなれないし、得るものもない。

 これは新書で出される本ではないと思うのだが、おんなの浮気ごころはおいしいかもと買ってしまう私も私である。この著者はまえに『人妻の研究』(ちくま新書)という本も出していて、男の煽情ワードを煽る戦略本を出しているようである。こんかいは新書の体裁だからつい買ってしまったが、この本はエロ小説の棚におくか、主婦向けの棚においてほしい。





 ■太陽の死と再生                 2006/9/18

 『神社の系譜 なぜそこにあるのか』 宮元健次
  光文社新書 2006/4 700e

 


 これはおもしろかった。神社の配置関係には自然暦の関係がぴったりとあらわれるという検証をおこなっている。

 たとえば大和平野では三輪山と二上山が日の出と日没のラインにぴったり重なっているが、その中間に春日神社をおけば、夏至と冬至のそれぞれの日の出に兵主神社と玉烈神社があり、夏至・冬至の日没にはそれぞれ鏡作神社と畝傍山があることになる。太陽の日の出と日没が象られているわけである。

 古来、日の沈むところはあの世であり、日の昇るところは再生の地であるといわれてきた。大和平野では二上山が死に場所であり、三輪山が再生の山であった。二上山の西麓にはおびただしい墳墓があるが、そこは他界の場であったからである。

 太陽がいちばん弱まるのは冬至であるが、反対にいちばん強まるのは夏至であり、初期の天皇陵の多い畝傍山から夏至の方角にあるのが三輪山であり、そこにある大神神社につよく再生が願われたのである。伊勢神宮の天照大神は三輪山にある檜原神社の大神大明神が降臨したものといわれ、東西の一直線にならぶのである。

 神社は太陽による死の国と再生の国を物語っているというわけである。そしてその配置は大和朝廷の平定した常陸(ひたち・日立ち)から、死の国・出雲の「日沈宮」まで結ばれることになるのである。

 この死と再生の自然暦の配置は家康までひきつがれ、家康は生誕の地より東の再生の場所である久能山に葬られ、そして日光東照宮は江戸城より北極星の方角に建てられ、北極星は古代より帝王を意味した。家康は神として再生することを願ったのである。

 古代の人たちは太陽の日の出と日没に死と再生の場所を見てきたのである。神社はその配置関係をあらわしたものなのである。場所の関係はわかったとして、太陽による出没があの世を思わせた気持ちというものがいまいち実感をともなわない。山の向こう、日の昇ったり、沈んだりするところに他界を想像できるだろうか。

 なんで伊勢神宮に天照大神(太陽神)が祭られているんだろうと私はそんな時代錯誤なと思っていたが、私たちは太陽の出没に他界を見る神社の世界観に囲まれて暮らしていることになる。まるで古代エジプト人だ(笑)。だけど夏と冬に生命や人生の盛衰を見るのはいまでも可能だろうし、太陽なくして地球上の全生命は生存できない。私たちは先人たちのこめてきた意図や気持ちに畏敬の念をもちつづけるべきなのだろう。





 ■階級とは金のヒエラルキーである        2006/9/23

 『階級社会―現代日本の格差を問う』 橋本健二
 講談社選書メチエ 2006/9 1500e

 


 なかなかショッキングな本である。日本の経済格差はすでに戦前の水準に達しており、格差を表わしたジニ係数ではアメリカ、ポルトガル、イタリア、イギリスにつづく位置に来ており、平均の半分以下しか稼げない比率を貧困率というが、メキシコ、トルコ、アイルランド、アメリカにつぐ15.3%にもなっている。「日本は平等な国だ」という一昔前の常識はまったく通用しなくなっているのだ。

 ほかにこの本で興味深く読めたのは東京での階級の棲み分け、『下町の太陽』や『いつでも夢を』といった昭和三十年代の映画の下町や労働者階級を肯定したメッセージ、梶原一騎の壮絶な階級闘争、アンダークラス化する若者たちや、もともと下層性をおびていた女性たちのさらなる貧困化が顕著になってきたということなどである。

 こういう階級論の本を読むとたいそう自分の位置の現実をつきつけられたり、脅かされたりするわけだが、しかしはて、いくら経済格差が広がってきたとはいえ、いまの日本に階級意識といったものが厳然と存在するかといったら、ほぼそういう意識はないと思う。階級とよべるほど人々のライフスタイルや環境、意識が違っているとはとても思われない。階級というのはほかの人たちと共通性や一体感がまったくもてない状態であると思うのだが、日本人のライフスタイルはまだまだ画一性や共通性が強いと思う。資本家階級や労働者階級といわれても、そんなに違いがあるとは思えない。金のあるなしの違いが人間自体を変えてしまうようにはとても思えない。

 階級論というのはこの本でも指摘しているとおり、そのヒエラルキーを承認することである。金持ちや収入が高いこと、地位が高いことなどを無条件に絶対的と見なす価値観のことである。つまりはこの階級論に釘づけられると、無条件にその価値観を肯定したり、必死に階級上昇をめざしたり、階級表示の見せびらかしに走らされるということである。支配的価値観の脅しや恐怖の洗脳なわけである。「あなたは古い恥ずかしい車に乗っているから何年に一度かは新しい車に乗り換えましょう」という商売と同じである。

 私は若いころ、大人たちの価値観が大嫌いだった。会社で出世したり、組織に隷属したり、金があることや大きいことを自慢したり、みんなと同じ趣味やレジャーに走る画一的大衆といったものを強烈に毛嫌いしていた。こういう価値観をもっていると、とうぜん私はアンダークラスに位置づけられるわけになる。いったら、階級論はほかの価値観のヒエラルキーがまったく入れられないのである。ほかの価値観は勝手に「負け」にされるのである。

 日本人は豊かになることや金持ちになること、会社での滅私奉公などの高度成長期の生き方をめざしてきて、目的が達成された80年代には自分たちの生き方を反省する気運が盛り上がったはずである。だからこそ若者たちは経済的脱落してもかまわないといって、フリーターやニートになってきたのである。

 階級論や格差論はこういう流れに水を刺すわけである。カネでの価値序列でおまえたちは最低だ、どん底だぞと脅すことによって、もう一度パン食い競争をうながしているわけである。いったら格差論は金儲けの価値観の郷愁であり、みんなでふたたび金儲けや地位をめざそうというレトロ、アナクロニズムである。この恐怖戦略が平等で豊かな社会を一度は立ち上げてきた日本人にどれだけ功を奏するのだろうか。

 階級論というのは、けっきょくはカネのヒエラルキーのことである。金ですべてが買えるという価値観の肯定である。私たちは自分たちのヒエラルキーが低いといって、ふたたびそのような価値観に帰ってゆくのがいいというのだろうか。階級社会の「事実化」や「リアリティー化」、「一般常識化」といった流れには巻き込まれずにいたいものである。階級を事実化するということはその前提の価値観を肯定するということである。

 なお橋本健二さんのホームページははてなアンテナで更新状況をチェックさせてもらっている。ほんのたまに「読書日記」を読まさせてもらっています。





 ■他者の都合としての社会と自分の好きなこと        2006/9/29

 『論争 格差社会』 文春新書編集部編
 文書新書 2006/8 750e

 


 多くの人の論文が集められているからおもしろいかなと思ったけど、さしたる感興のわく本にはならなかった。たぶん格差社会論自体にあまり興味をいだかなくなったからだろう。私は格差社会の序列を恐れることより、なんでみんな好き勝手に自由に生きられる世の中にならないんだろうと思う。あいわらずヒエラルキーを気にした横並び社会なのである。

 おさめられた論文は『日本の不平等』の大竹文雄、『希望格差社会』の山田昌弘、斉藤環、さいきんブログを閉鎖した本田由紀、小谷野敦、『不平等社会日本』の佐藤俊樹など、対談に森永卓郎や日下公人、渡部昇一などが出ている。まあ、豪華な本だが、内容のほうはいまいち。

 対談でひきこもりの支援活動をおこなう二神能基という人の言葉がひびいた。
 「戦後ずっと日本がやってきた経済主義、所得で幸せが分かれる格差社会論みたいなものとは全く違う価値観で世界を見る若者たちが、生まれてきています」

 「うちの若者を見ていると、物余りの中で「生産拒否症候群」(木田元の命名)で、ものをつくるのはいいことじゃないという感覚が広がっています。大量生産、大量消費でやってきた日本への懐疑ですよ。正社員になって、たくさん稼いでたくさん税金を払いましょうという方向に対して、それも違うなという連中が増えてくれば、これは非常に大きなレジスタンスになりえます」

 ――そうなんですよね、私も労働や会社ばかりの人生からずっとオサラバしたいと思ってきたのだが、35歳以上の求人減のカベにぶちあたって、いまは安定を欲した働き方に擬態するしかないのである。

 あいかわらずあっけらかんとした日下公人は、渡部昇一とひとむかしまえの上流階級のいやみったらしい話をしたあと、いっている。「〜パトロンがやってきた福祉は、役所が代わりにやっている。これだと心が通わない。基準をつくり、型どおりにお金を配るから、貰った者もあまり有り難みを感じない。〜それで日本には、パサパサした、乾いた人間関係が蔓延しました」

 日垣隆も自立に関していいことをいっている。「入試や就職試験も、キミたちのためにあるのではない。採る側の都合で、それらの関門がある。
 自分が合格するかどうかは、もちろん個人にとっては人生の重大事であるが、企業にとっては全然肝心なことではない。相手の都合で入試や就職試験があると認識できないことと、恋心を抱いた相手に対してストーカーになってしまうこととは、まったく同じ構造だ。
 家族以外の社会というものは、およそ自分の都合では決まらず、他者の都合の総和で成り立っているという事実と向き合うことが、自立のイロハである。
 〜自己都合中心の仕事観は放漫である〜」

 ――この意味もいまではよくわかるようになったが、若いころというのは自分の好きなことや才能で食って生きたいと思うものなんだな。仕事が他者の都合や必要によってはじめて生じているということがなぜか認識できない。仕事や世界は自分の好きなことや才能のためにあるべきだとどこかで思い込んでいる。

 それは子どものときに教育や消費ですべてお客さんだったという事情も関係しているのだろう。20年前後も自分のための教育や消費ばかりおこなってきておいて、急に社会に放り出されて、仕事というのは他人の必要や都合を満たすためにあるということなんてわかりっこない。それで他人の都合を満たすためだけの人生に剥奪感や無意味感を抱くというわけである。この180度の転換をどうなしとげるかが、ニートと会社人間の別れ道になるのだろう。あるいはどうやって自分の都合を大事にできる社会をつくってゆけるかだ。





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超オススメ本特選集
2004-2002

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人は虚構の自分を守っている。

『ラムサ―真・聖なる預言』 角川春樹事務所
 

すごい本。次元を超えた世界を信じられるか。

『バーソロミュー』 マホロバアート
 

怪しさより、心理的な知恵をとりたい。

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なぜ嫌いな人がいるのか。それは自分だから。

『整体 楽になる技術』 片山洋次郎 ちくま新書
 

身体とは感情なのである。

『疲労回復の本』 津村喬 同朋舎
 

感情が身体を疲労させる。

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若者は怠けているのではない。企業が仕事を与えないのだ。

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過去はほじくりだすより、忘れるほうがよほど心にいい。

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批判ばかりの人生は幸福か。

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性とは人の生きざまである。

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自分の正しさや意見より、許すことの大切さ。

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男と女の違いに恐れ入る名著。

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男らしさが女性を傷つける。


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 超オススメ本特選集 2002-2004 2006/3/5





■2001 Great Books

『孤独であるためのレッスン』 諸富祥彦 NHKブックス


『なまけ者の3分間瞑想法』 デイヴィッド・ハーブ 創元社


『マイホームレス・チャイルド』 三浦展 クラブハウス


『パラサイト日本人論』 竹内久美子 文春文庫


『メディア論―人間の拡張の諸相』 マーシャル・マクルーハン みすず書房


『感覚の力』 コンスタンス・クラッセン 工作舎


『絵本と童話のユング心理学』 山中康裕 ちくま学芸文庫


『昔話とこころの自立』 松居友 洋泉社


『昔話の魔力』 ブルーノ・ベッテルハイム 評論社


『グリム童話』 マリア・タタール 新曜社


『「本当の自分」をどうみつけるか』 小此木啓吾 講談社プラスアルファ文庫




   
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