バナー
本文へジャンプ  

 


 ■060609書評集


 ■市場の失敗から政府の失敗へ            2006/6/9

 『市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防〈上〉』 ヤーギン&スタニスロー
 日経ビジネス人文庫 1998 857e

 


 二十世紀前半は市場がまったく信用されなくなり、政府の役割がかつてないほど拡大した時期であり、そしてこんにちではそのぎゃくのことがおこっている。この皮肉な反転を世界規模で追った長大なドキュメンタリーで、たしかにこの「市場対国家」という流れは二十世紀の大きなテーマであった。世界はこのイデオロギーで動いたといっていい。

 私は歴史個別的な物語はどうも苦手な部類に属するので、エッセンスだけを読みたかったとは思わなくもないが、まあ、たまには市場と国家のドキュメンタリーを読むのも悪くないと思いながら読んだ。エッセンスだけを見ると、エッセンスをふくらましたり、同じことのくりかえしばかりに思えてしまうのだが、それは個人の好みだろう。

 上巻ではヨーロッパ混合経済、アメリカの規制型資本主義、第三世界の開発主義、そしてイギリスの市場革命、アジアの勃興などがとりあげられている。各国の国家情勢や政治的経緯が追われている。

 この本では考え方が世界を変えるととらえられている。世界は政府を信用するか、市場を信用するかという考え方の違いによって大きく動いてきたのであり、そして壮絶なバトルをくりひろげてきたのである。人間にとっての考え方の変化はきわめて重要だと著者のいうとおりである。

 二十世紀前半の混乱がもたらした苦痛がきわめて大きかったために市場はまったく信用されなくなり、政府の役割や信頼は絶大に拡大した。その考え方が70年代ころまでピークを迎えたのだが、こんにちでは政府の失敗をまのあたりにしたり、信頼をまったく失ってしまっている。考え方はまったくひっくりかえったといえる。この歴史の皮肉を味わうのが本書の醍醐味だといえるだろう。かつては正しいと思われていた考え方がこんにちでは間違いだと思われている歴史の中に、人間の限界やあやまちを見ることができるだろう。

 下巻が書店で見つからなかったためにまだ上巻までしか読み終えていないが、下巻もひきつづき読みたいと思っている。感想をつけ足すかはわからないが。





 ■自由化は人びとを脅す。            2006/6/11

 『セーフティーネットの政治経済学』 金子勝
 ちくま新書 1999 680e

 


 TVに出る学者は信用されなくなる。たぶん足場をTVにもつからだろう。本業をおろそかにしていると見られる。または本業の力量がないからTVに活路を見い出したとも見られる。TVから知った学者の本は読みたくなかったのだが、本を読んでみて私の邪推は当たってないように思えた。私はあまり経済学のレベルは知らないけど。

 90年代、アメリカ流の市場原理化はことごとく失敗している。規制が外され、自由化がすすめられると、銀行が破綻したり、大きな矛盾である公的資金が投入されたり、雇用の流動化がすすめられると人びとは不安になって貯蓄を増やし、消費はますます冷え込み、企業は雇用を削減せざるをえなくなる悪循環に陥っている。

 金融自由化もタイでおこなわれると巨額の短期資金が流入するようになり、97年夏にタイバーツが暴落し、東南アジアに通貨危機がおそったのはご存知のとおりである。

 この本の中でいちばん感銘した部分は自己利益のみを追求する個人主義を前提とした主流経済学を徹底すれば、人々の中に極端な集団主義があらわれることになるというくだりである。話が極端なポップス界に飛ぶが、80年代にマイケル・ジャクソン、90年代に宇多田ヒカルというスーパースターがあらわれたのは、共に両国で不況によって自由化がおこわれた時期である。

 自由化という強迫は人びとを不安に陥れ、ますます福祉の必要を感じるようになるという矛盾があるようだ。自由化は不況の間におこなわれると、ますます不況を深刻にするだけみたいである。人びとの安心を破壊するだけなのである。これは覚えておきたい重要事である。

 金子勝は「市場原理か政府介入か」、「大きな政府か小さな政府か」「競争か平等か」という二分法はもう陳腐だという。この思考法に捉えられている限り政治権力の肥大化はまぬがれないという。金子の説く政策はいまいちインパクトがなく、第三の道といえるほど強烈な印象をのこしたわけではないが、たしかに自由化は人びとの安心を破壊して不況を深化させるのはいうとおりだと思う。





 ■経済学者のダイジェスト            2006/6/14

 『巨匠が解く日本経済の難問』 日本経済新聞社=編
 日経ビジネス人文庫 2003/4 695e

 


 私は社会学や思想の言葉はすんなりと頭に入るのだが、経済学は苦手だ。とくに数学が出てくると、頭の回線がはたらかなくなる。また哲学のような思索の醍醐味を楽しませてくれるような問題も感じられない。

 私がいま知りたいのは社会政策の失敗を経済原理で解くという方法である。政府がなにか善きことをおこなうと、効果が逆に出る。この社会政策の失敗ならびに社会保障の弊害を、もうすこし社会学的な目線で理解したいと思うのである。市場には神の見えざる手がはたらいて、政府にはなぜそれがはたらかないのだろう。市場の罰則がないからだろうか。

 経済学者のそうそうたるメンバーと顔写真がのせられたこの本は、そのような知識を広める学者はいないものかと探るために読まれた。役に立たなかった。たぶん日本経済の難問もこれらの学者によって解答が与えられたようにも思えなかった。私にとってはどのような経済学者がいるのか把握できたくらいというしかないな。





 ■異常の逸脱を測る社会              2006/6/17

 『生と権力の哲学』 檜垣立哉
 ちくま新書 2006/5 740e

 


 フーコーの権力論・生政治学を中心にその課題をアガンペンやネグリに読み込んだ本である。私はフーコー関連は何冊か読んだけど、その後のアガンペンやネグリはほとんど知らないから、どのようなことが語られているのか参考になった。

 大半はフーコーの思想の解説なのだが、フーコー論はいたるところで目にしているから私はもういいやとちょっと食傷気味だった。はじめて読む人には参考になるのだろうけど、初心者向けというにはちょっとむずかしそうだ。フーコーの解説をこの本でやるべきだったのかって気がするけど。

 フーコーのいう狂人を自由に解放するパラドックスは覚えておきたいことだ。見せびらかしの残酷な刑罰から、慈悲と人間味にあふれた矯正がおこなわれると、逆説的に不自由は増大され、すべての人間は異常を測る監視網の権力にさらされることになる。正義や慈愛の社会は自己の異常の逸脱にたえず脅かされることになるのである。フーコーの思想はこういうやさしい権力のおぞましさや恐ろしさを指摘することで、多くの人の関心をひきつけるのだろう。

 その権力網から抜け出す方法がアガンペンやネグリに探られることになるのだが、私にはどういうことなのかよくわからなかった。しかし現代思想の華やかなところ、思想家をスノッブに語る魅力を感じさせてくれる本である。思想家の「ブランド消費」はいまでももちろん効力を失っていないのだろう。

 




 ■学校の私をないがしろにするな(泣)。           2006/6/18

 『他人を見下す若者たち』 速水敏彦
 講談社現代新書 2006/2 720e

 


 ぶれている。根拠のない有能感によって人を見下す若者を批判しようとしているのだが、そもそも有能感や自尊心といったもの自体が根拠のないものといえるから、若者の人の見下した態度を責める根拠にはなりえない。優越感や自尊心といったものは、なにを根拠に、またはモノサシで立ち上げられるのか、ひじょうにむずかしい。

 この本は著者の若者に無視された経験をもとに実証研究がまぶされた、科学的装いをまとった「ウサ晴らし本」である。「おまえたち、若者はなんでそんなにエラソーなんだ」「根拠はあるのか」ということである。要は著者がかかわる「学校をないがしろにするのはけしからん」ということだが、学校なんてもとからサービス業なはずだし、子どもは大人を尊重するがゆえに大人たちとべつの「場」をつくり、大人は「違う人」だと切り分けるから、大人はいろんなところで相手にされないと思うんだけどな。

 他人を無視した見下す若者の出現を、悲しみを軽視した、ネアカでポジティヴさを強制する社会にも同情心の喪失を見ている。悲しみを評価する社会でないと、同情心が芽生えないということである。by五木寛之。

 著者は教育心理学の人だから、仮想的有能感の出現の理由を商業的理由に求めるのを見事にすとーんと落としている。若者が根拠のない有能感をもつように見えるのは、メディアや消費がかれらに有能感をもたせる消費をおこなわせてきたからである。

 かれらはニュースですべての人をバカにして裁く視点に同一化しているし、音楽や映画、またはモノの消費によって、優越感や有能感を得られる消費をおこなっている。つまり消費社会というのは消費者の優越感を満足させるサービスなのであり、学生のあいだに専業的消費者としてのかれらは王侯的な有能感をじゃぶじゃぶとまとわりつかされるのである。それは企業社会や労働においてはまったく役に立たない基準なので、若者は社会に出ると面喰うのだけど。

 子どもや若者はこの有能感をひじょうに色濃くもっており、学校での有能/無能というモノサシはすでに効力を失っているのである。いくら著者が学校を見下すなと嘆いたところで、時代の趨勢はもう逆戻しにはできないのである。

 有能感や自尊心というのはひじょうにむずかしい問題である。著者は若者の有能感を「仮想的」と命名することによって健全な自尊心と区別しようとするのだが、はたして人を暗黙に見下さない自尊心ってあるのだろうか。根拠のない有能感だというが、自信にみちた成功者も絶対的に根拠にあるものなのか。またことさら人を見下す若者を批判しているが、エリートや上流階級といった人たちはここん下層階級を見下してきたのではないか、かれらは健全な自尊心だといえるのか、さまざまな疑念がおもいうかぶ。

 この本も有能感も優越感もすべて「砂上の楼閣」って気がする。絶対的に根拠のある自尊心ってあるものだろうか。永久の勝ち負けってあるものだろうか。

 また自信というものを責めてしまえば、自信のない萎縮した人生を賛美するわけでもとうぜんないだろう。有能感や優越心は人が生きてゆくうえで必要なものである。私の不快感のために人は自信のない人生を送れっていうのか。人を軽蔑しない有能感が必要だということなのだろうけど、そもそも有能感って軽蔑と優越でなりたっているものではないのか。健全な自尊心ってどこまでいってもウソくさい気がする。せいぜい人を見下さない自信を身につけるということだが、自信って比較なしに立ち上げることはできるのだろうか。「……」である。

 ▼関連ファイル
 「なぜ働かないことに有能感を感じるのか」 すいません。10番目の記事です。
 「誇大自己症候群」書評 すいません。16番目の記事です。





 ■もらうこと、奪うことばかり考えてないか。      2006/6/21

 『ユダヤ人大富豪の教え』 本田鍵
 だいわ文庫 2003/7 648e

 


 ふたつの目的で読まれた。金儲けは汚いことだと思われているが、人に喜びを与える利他行為ではないのかといった考えの検討と、たんじゅんに私もお金が必要だから大富豪はどんな考え方をしているのかといった興味からだ。どうも私は金儲けを悪者に捉えすぎている。金儲け観を検討したくなった。

 ショックのあまりしばらく本を閉じてうなった一節があった。

 「給料をもらう人間は働いている時間が退屈なので、その時間が早く過ぎないかだけを考えている。普通の人は、『人からもらえるもの』にしか興味がないのだ。だから金持ちになれない。
 一方、スターと呼ばれる人たちや、事業で成功している人たちは、その仕事を辞めるのが難しいくらい、自分の仕事を愛している。〜言ってみれば、与えることばかり考えているといえるだろう」

 「花が好きな店の主人は、自分の大好きな花で、お客さんをどのように喜ばせようかと考えている。余分にサービスしようとか、きれいにラッピングしてあげようとか、お客が喜ぶサービスを無限に思いつく。お客にいかにたくさん与えられるかを考える。
 一方、利益ばかり考えている花屋は、その逆をやる。一本サービスするなんて、とんでもない。ラッピングするときは有料にして利益を出そう。もっとたくさん客に花を買わせてやろうと、客から奪うことばかり考える。どちらの花屋で花を買いたいかね?」

 「金持ちは多くの人に喜びを与えるから、金持ちになったのだ」ということである。私たちは金持ちを人から奪ったり、だましたりして儲けたと考える。金儲けを汚くて、醜い、悪いことだと捉える。だけど金持ちになった人は客に喜びを与えたからこそ、お客は多くの金をかれに払ったのである。だれもほしくないものなんかに金を払わないだろう。われわれはどうしてこのような金の利他的側面をみないで、利己的側面をみるのだろう?

 それは自分自身の姿をみているにほかならないからではないだろうか。もらうことや、奪うことばかり考えている自分自身の姿が投影されているだけではないのか。自分がそんな人間だから、金持ちもそんなふうにしかみえないのだ。自分自身が人からもらうことばかり考えて、人に与えようなんてちっとも思ってないからではないのか。貨幣社会では人に多く与えた者が多くうけとるようになっている。金持ちはほんとうに悪徳商人なのか。日本人の金儲け観を検討したくなった。

 この本は本田青年がアメリカで出会ったユダヤ人大富豪に幸せな金持ちになる方法を教えてもらう小説風の自己啓発書である。これは金持ちになるための方法論でもあるが、ほとんど精神世界に近いけど、もっと現実的な言説が語られている。金を稼ぐことは人生でもあり、また幸福論と同じでもあると教えてくれる。うん、まったく幸福論だ。ビジネスとはまったく人生にほかならないのである。成功の落とし穴についてもいろいろ教えてくれる。私はこの物語がどれだけ実話なのか気になりつづけたが。

 悪くいうつもりはないけど、お金持ちになる自己啓発書って精神世界が混入しているものである。ナポレオン・ヒルとか船井幸雄とか書店に並ぶ自己啓発書は金儲けと精神世界がいっしょくたになっているものである。なぜ金儲けは精神世界に結びつきやすいのだろう。金儲けは人生と同じで科学的実証で測れるものではない未知数のものを多くふくみ、占いや怪しい世界に近いからだろうか。信念が強く必要になる世界からかもしれない。

 私は自己啓発書は読んだほうがいいと思っている。ポジティヴやプラスになる考え方を知るというのは、ほんと役に立つ。人は放っておいたら、悪いほうへ、マイナスのほうへばかり、思考が固着してしまうようだからだ。凝り固まった思考の風通しをよくするために、自己啓発書は新たな発見と驚きをもたらしてくれる。もちろん健全な猜疑心もともにもってゆく必要もあるのはいうまでもないことだけど。





 ■ネットの革命と現況                  2006/6/25

 『ウェブ進化論』 梅田望夫
 ちくま新書 2006/2 740e

 


 インターネットによって社会に革命がおこると喧伝されてから10年。ほとんどなにも変わらなかったじゃないかと思う人が大半。すごさは実感できても、なにも変わるところにいたっていない。そしてひさびさにネットに革命がおこりつつあるとふたたび期待させてくれるのが本書。こんかいの「革命」は世の中を変えるのか。

 私はネットの技術面にはうといから、そういうことだったのかと納得させてくれる箇所にいくつも出会った。アマゾンの売り上げは十三万位以降から売り上げの半数(三分の一)を得ていること、それをロングテール(長い尾)という。ネットはリアル書店でまったく埋もれてしまう価値に新たな光を当てるということである。だから情報の無償提供にも価値を認めるべきであり、そのようなオープンソースが新しい経済圏をつくるということである。

 情報や知識を囲い込んでいたら、ビッグバンは起こらない。私もそう思う。おおくの情報が共有されてから、新たに創造や進化、または経済圏ができあがるのだと思う。古い著作権の考えだったら一oももらさず情報は隠そうとするのだが、そんなことをすれば情報や広告はいっさい行き渡らない。いちど大きく共有してからリターンを得るという方法がネットに求められるのだと思う。

 ブログは記事に固有のアドレスがつけられるようになったから便利になったというのも納得。これまではHP全体が標準的単位だったが、ブログはそれを記事単位にしたのだ。たしかに私のHPも記事単位にリンクを貼ってもらっても、アドレスが移動してしまっている不具合が発生していたものだ。だから私はブログに移行しようと思ったのだ。HP単位なら記事に反響が付されない。

 それにしてもネットはあいかわらず注目情報の表示ができないなと思う。サーチエンジンの検索なんか見つけたい情報があるときは便利だけど、受動的になにかおもしろい情報はないかなと思ったときにはなんの役にも立たない。はてなアンテナも限られた情報だけ。いつもネットの注目情報を集めてくれるブログや仕組みはまだできないものかと思っていたものだ。ネット情報局のようなものだ。まだできていないほうが変だ。

 ネットで稼ぐことができると喧伝されてから、ネットはどんどんリアル世界の稼ぎを侵食する現象ばかりあらわれた。新聞社なんてなんでニュースを無料で公表できるのだろう。画像や動画は無料でおおくが鑑賞・所有できるようになっている。広告なんか儲かるのか。著作権はネットのおかげで消滅してしまうのではないかといった状況だ。

 「消費者天国・供給者地獄」だ。ネットはほんとうに稼げない。必死に著作権を囲もうとするのだが、そんな時代の流れに逆行することをしても、たぶんぎゃくに情報として存在しないも同然になるだけだろう。いちどは大出しにして、ロングテールのような価値を待つほうが賢明ではないのかと思う。ネット時代の客寄せパンダはかなり大掛かりな無償でないとだれもその存在すら気づきもしないのである。

 私のアマゾン・アフィリエートは2004年12月からはじめられ、げんざいは三ヶ月で五千をやっと超える程度になった。そしてそれはほとんど過去の記事によって売れたものだと思われる。あるいはたんにアマゾンで本を買う入り口になったということで。私の分身が、過去の私が稼いでくれているということになる。私がいま売ろうと思って売ったわけではないのである。それは読者の都合にまったく依存している。こういうかたちが波に乗る可能性もないわけではない。むかしは本のようコンテンツで稼げるようになると思っていたけど。

 総体的に私はインターネットは革命を起こすと思っている。ただしそれはかなり長期的なスパンでしか起こらないと思っている。この五年や十年で社会的大革命が起こるわけはないのだ。鉄道のように革命的に社会を変えてゆくと思っている。たとえば会社で組織的に働けるようになったのはやはり鉄道の力が大きい。ネットはそのような変化をもたらすと思っている。しかし10年や20年の単位ではそのような変化は起こらないだろう。ネット革命は長い目で見るしかないのである。いまは知識や情報の意味を革命的に変えている最中なのだろう。

 でもその最中はなにも変わらないと思いつづけるのだろう。そしてたまに革命の変化を報告する本書のような期待させてくれる本が出る。わくわく・うきうき感が世の中や私のまわりを変えてゆき、そのような現実を現出させる。でも期待は幻滅に変わるという経験を何度もくりかえしながら、後から見て大きな変化が起こっていたとなるのだろう。

 私は不特定多数の人に自分のいいたこと、思っていることを伝えられるという装置ができただけで、ものすごくうれしいことだと思っている。そういう機能はマスコミだけが独占してきて、知識を強制されるという時代をこれまですごさざるを得なかったわけだから。少数の独占という異常な状態が長くつづいてきたのだ。これをくつがえす装置ができたということだけで、私にはすでに「革命」である。

▼梅田望夫のブログ
 My Life Between Silicon Valley and Japan





 ■お金のセラピー書なんてあったんだ。      2006/6/27

 『ユダヤ人大富豪の教えU』 本田健
 だいわ文庫 2004/6 648e

 


 思わず愛着のわく本になってしまった。幸せな金持ちになるための本だが、お金のセラピー書ともいえる内容をふくんでいて、おどろきである。

 私たちはたいてい親や家庭でのお金のかかわりを見て金銭観をはぐくむ。そしてそこには怖れや恨みや怒り、不安、軽蔑などの感情をまとわりつかせて、そのお金への偏見や固定意識によってお金とのかかわりかたをつくってゆく。いわばお金の奴隷になるのであり、または親の金銭観の奴隷となるのである。

 たとえばこの物語に出てくる「僕」の父は、「経済力のない男は首のないのと同じだ」を口ぐせにし、友人もなく家族にもそっぽを向かれ、金だけが唯一の友だちだ。その父は夜学の高校に通っていたころ、パンを買う金もなくひもじい思いをしていたそうだ。子どもだった「僕」は貯金箱をもってきてお父さんにパンを買ってあげるといったら、父は号泣して僕を抱きしめたことがあったそうだ。そして父はお金さえあればと思いがむしゃらな人生を選択し、僕はお金持ちになったら父さんを癒してあげられると思うようになっている。

 家族のお金のドラマがその後の人生のお金とのつき合い方を決めてしまうのである。もしそれがネガティヴなかかわりだったら、その人は一生そのドラマに囚われて生きることになってしまうだろう。お金で傷ついた心を癒さないことにはお金からの自由と解放は得られないのである。

 心理学だけではなく、お金との関係も癒さなければならないなんて、私には目からうろこの世界だ。私の家庭も父の事業の失敗という経済的危機の状態をくぐりぬけて、おそらく私は金は汚いとか無関心なふりの態度をもつようになったのだろう。私も親の家庭に囚われた金銭観を解放しなければなと思ったしだいです。

 もうひとつ書いておきたいことは、お金に何を見るかで人生の種類や質はまったく違ったものになるということだ。

 お金に権力、パワー、影響力を見る人はパワーゲームに人生を費やしてしまうだろうし、自由になれると思っている人はぎゃくに自由を失うし、安心や安全をもとめてもどんな大金持ちでも安心することはない。お金に自分や男、女の価値を見る人は金に縛られつづけるだろうし、汚いと思う人はお金のよい面よりお金の悪いことばかりにぶつかってしまい、愛情を見る人は男女関係の修羅場を見ることだろう。応援、感謝をお金に見るような人は楽しく幸せな人生を送るといえるだろう。

 私たちは無意識のうちにお金にいくつもの感情をまとわりつかせている。そしてそれによって人生が決まり、または将来まで決まってしまうのだろう。

 お金といういちばん身近で大切なものでありながら、われわれはあらためてお金について考えてみるということはない。考え方や過去の奴隷となって、われわれは幽霊のように生きているといえるだろう。私がこのような金持ちになるための本を読もうと思いはじめたのは、自分の無自覚な金銭観を考えなおしてみたくなったからだ。

 金儲けは悪いこと、貪欲で功利的な人間になることだと無自覚に思っている私は、ちかごろ金儲けは人に喜ばれる利他的行為をしたからこそたくさんの人からお金をもらったのだという側面にようやく気づきだした。金銭観を考えるには、金持ちになるという自己啓発書が役にたちそうだと目をつけている。ちょっと金儲けの本を読んでみようかと思っているしだいです。





 ■抑制されたヒーリング               2006/6/28

 Single Collection 柴田淳
 

 YouTubeでたまたまみつけた『片想い』のビデオ・クリップ。リビングルームでくつろいだり、歌ったりする姿が静謐に映されるだけの映像だけど、そのシンプルさがかえって目をひいた。片想いというせつない曲と熱いまなざしに、つい何度もビデオ・クリップを見かえしてしまった。美人です。思わずシングルをあつめたこのアルバムを買ってしまいました。

 曲調としてはほとんどスローなバラードばかりで、鎮めるための唄、または癒されるために聴くような曲で占められている。まちがってもノリノリのロックを歌うアーティストではない。

 1976年生まれのことし30歳になる、2001年デビューの大人の女性である。だからティーンエイジャー向けの邦楽業界には、大人向けの曲を期待できる女性アーティストである。

 ヒーリング的な曲がほとんどなのだが、私はバラードが大好きだが、感動的な盛り上がりのあるバラードのほうが好きである。だから柴田淳は「抑制された情緒」ではないかと思える。いまいち感動や盛り上がりのドラマに欠けるのである。鎮めるにはいい曲なのだが、感動してカタルシスを得るといった曲ではない。そこが個人的には残念である。もちろん聞き込めば深い内容の曲が多いのだけど。

 柴田淳はじわじわとチャートを上ってゆくようなアーティストである。だけど大衆的な人気を得るアーティストにはなってほしくないと思うし、好きな人には好きなアーティストであるほうがいいと思う。マス・マーケットに受けるようなアーティストをめざしてほしくない。願わくばピアノの弾き語りをするような吟遊詩人みたいになってほしい。あと、やっぱり大そうな感動的なバラードが聴きたい。めざすところではないかもしれないけど。

 この人はなにを歌っているかというと、よくわからない。ラヴ・ソングばかりではないし、人生の応援歌というまでもないし、自分の後悔や日常の想いやありようを詩的につづっているということになるだろうか。気もちを鎮められる曲であるのはまちがいない。

 ▼YouTubeのプロモーション・ビデオ
 (追記 リンク切れが増えましたので、shibata junで検索してみてください。)
 片想い
 「私から あなたを好きな気もち 奪わないで」…屈折した片想いである。

 
 柴田淳が失恋を歌うとこんな歌になるんですかね。

 ちいさなぼくへ
 「僕が君の未来だなんて 悲しくて 切なくて 閉じたアルバム」

 白い世界
 「歩き疲れ 生き疲れて それでも消えそうな夢を……」

 ため息
 ここではないどこかへということか。

 柴田淳オフィシャル・サイト
 http://www.shibatajun.com/





Google
WWW を検索 サイト内検索

ご意見、ご感想お待ちしております。
 ues@leo.interq.or.jp


   
inserted by FC2 system