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 ■060402書評集


 ■原因をぜひ私どもに。               2006/4/2

 『大航海58 ニート 転換する現代文明』
 新書館 2006/5 1500e

 

 小田晋が「ニートは労働問題ではない」ってさ。精神医学者はニートの問題を雇用問題にされてしまったら、自分のパイがなくってたいへんだ。精神医学にとっての「お客さま」でなければ困ってしまう。いそいで「病者」になってもらわなければ――。

 ニートは「意欲」や「甘え」が原因とかいわれたり、あるいは雇用問題であるとか、それぞれの学者は自分のフィールドに問題を落としてもらわないと、自分たちの儲けや利益につながらないから、自分たちの専門に原因をいやがおうでも「つくらざる」をえない。

 私は仲正昌樹がいっているように、「労働に生きがいを見い出し、それに打ち込むことによって社会全体が豊かになってゆく」という命題が崩れたことにニートの原因を見い出すべきだと思う。

 「人間は労働することによって幸福になるとは限らない」――この疑念が根本の原因だと思う。雇用問題に原因を帰すと若者はなんでも職業につけさえすればよいとなってしまうが、労働の意味の崩壊にはまったくなんの解決にもならない。

 私たちは「労働して労働して豊かになって豊かになって、だからなんなのだ」、という問いに真正面からとりくまなければならない時期に来ているのである。

 あと、小倉紀蔵の「全能感・無能感・分能感でニートを解く」がはげしく心につき刺さった。全能感と分能感の問題はやっぱり私もかなり葛藤してきた経緯がある。世界の中心である私と、世間の片隅の歯車としての私には、着地点をうまく見い出したかわからない。

 知識においても、むかしは「岩波文庫をすべて読破した」というような外部の全体性を内部化することによって全能感を高めようとする時代だった。いまは「編集」の時代で、自分の関心や嗜好にしたがって知識が再編成されるような時代になった。私もまったくそういうタイプである。自分の知識欲は全能感のとりもどしである、という恥ずかしい事実をつきつけられた気がして、私はあいかわらず自己の分能感を育てられていないんだなとはたと考え込んでしまった。





 ■「下流」を脅して得するのはだれか        2006/4/8

 『図解 下流時代を生きる!』 階層社会研究委員会
 ゴマブックス 2006/4 952e

 


 ひどくインパクトのある本が出たなという印象をもった。イラスト入りの一般読書向けの本だ。おまけに近くのコンビニにおいてあったので思わず買った。

 三浦展がつかいだした「下流社会」が週刊誌の見出しもにぎわせるようになり、あとはテレビがどれだけショッキングにうまく宣伝するかだが、こうやって知識はいっぱんにひろまってゆくのだと思った。

 こういう一般向けの本というのは、学校の教科書もそうだったけど、「絶対」の真理があると思い込ませたり、事実を決めつけたりしてしまう。世の中のイメージというのは、「こうではないか」「ああではないか」と知識人たちがいいあっている、かろうじてこういう「世界像」にしましょうというものでしかないのに、こういう一般向けの書物になると、あたかも「絶対」の真実があるかのように思い込まされてしまう。

 「下流社会」や「階層化社会」というのは、「勝ち組」や「負け組み」のように、勝敗のはっきりした社会にしましょうということだ。いままで「一億総中流」とよばれた社会はみなが平均で満足してしまい、努力しない社会になった。だから勝ち負けをはっきりさせて、怠け者たちを震いあがらせて、パン食い競争にむしゃぶりつかせようというわけである。

 いったら「平等ゲーム」は終わり、「勝ち負けゲーム」をはじめますよ、ということだ。これは社会のありのままの姿というよりか、これからのゲームの姿、価値観のシステムづけの宣言でしかない。下流に震えあがって、さっさと勤勉に労働に金儲けしろーというわけである。

 私たちはこんなパン食い競争に目の色を変えて走り出す前に、私たち自身の幸福や人生目標をまず問い直すことが先決である。「下流社会」という脅迫ワードは、労働にも会社にも幸福を見い出せないと知りはじめた若者に対する脅しなのだろう。こういうやる気をなくした若者たちに恐怖を植えつけようとしているのである。

 はたして下流の反対である上流の高所得やブランド、高密度の労働ってほんとうに「上流」で「幸福」な人生なのだろうか。若者はそんな人生がいやで逃げ出したから、既得権益に「下流」と悲壮なレッテルを貼られたのではないか。

 私たちは「下流」「下流」と脅かされる前に、上流の人生がめざすべきもので、価値のあるものかという問いかけ自体がまず必要なのである。どんな組織もカルト宗教も人の恐怖を利用して支配するのは当たり前のことである。

  



GREAT BOOKS

 ■安定した「会社社会」の終わり           2006/4/15

 『不安型ナショナリズムの時代』 高原 基彰
 洋泉社y新書 06/4 780e

 


 これはまたひきつけられて、興奮して読んだ書物である。私たちがこれまで安住してきた「会社社会」の安定性がもう終わってしまい、ノスタルジアでしかないと宣告し、そのような社会になった経緯とこれからの見取り図を与えてくれる書物である。

 願わくばこの会社社会の終焉を、ナショナリズムから説明するより、戦後日本の安定社会の終焉だけで独立してほしかったと思う。ナショナリズムは危惧するほど重要な問題ではなく、私は新聞やメディアが騒ぐ一部だけの話題にしか思えないのだが。すくなくとも私は心にちっともひっかからない。

 脱工業化と社会の流動性にはほんとうにひきつけられた。「会社が生活を規定してきた時代の終わり」、または「スーツを着て満員電車に乗って会社に行く」といったまともなサラリーマンが終わってしまったのだ、「一億総中流社会の終焉」といったことが、これまでのその社会の成立要因を追いながら説明されている。

 同じような論はいくらでも聞いたことはあるのだが、この論は何度聞いても、また角度がすこしでも変わっていたら新鮮に感じられ、とても興味深くなるのである。堺屋太一の同じような内容の本を何冊も読んでいるようだといったらいいすぎだが、76年生まれの著者はもっと新しく時代の変化をとらえているのである。

 まだこの社会通念が強固に存在しているからだろう。親は「定職につけ」、若者は「ともかく正社員になりたい」といいつづける。著者は一生同じ会社でものづくりに励む社会にもどろうとするのは狂気の沙汰とまでいう。

 日本はあまりにも「会社社会主義」が成功しすぎたためにその成功体験から抜け出せないのである。こういった安定した勤め人といった観念を日本は叩き壊さなければならないのだろう。かれらはいまだに「成功」や「まとも」であるシンボルでありつづけるのだが、かれらは時代に遅れた「失敗例」と見なされる転換が必要なのだろう。

 それにくらべて韓国は97年のアジア通貨危機に発するIMF改革による財閥解体や、中国では後発性利益を生かして国有企業の中高年の没落と社会流動化はすすんでいるといえる。いったら会社に守られた社会保障は韓国や中国では存在しないのだということである。日本もこれらの流れと無縁でありうるわけがない。

 サラリーマン中間層が没落した人たちだととらえられるような日が日本にもいつか来るのだろうか。そうならないと日本は硬直化したまま、新しい変化や創造はまったくおこなわれないまま、沈んでゆくしかないのである。(それにしてもこんな文章が書けるなんて時代が変わったものだなあ)





 ■経済学理論はムズカシすぎ。            2006/4/19

 『日常生活を経済学する』 デイビッド・フリードマン
 日本経済新聞社 1996 2300e

 


 読みすすめるのにだいぶ時間がかかったし、何度投げ出したいと思ったかわからない。いくら日常的なことを経済学で説明するといっても、経済学の理論はむずかしすぎる。

 そもそもこの本を読もうと思ったのは、リバタリアンの思想を知りたかったからだが、D・フリードマンの『自由のためのメカニズムは』は四千円もして高すぎるので、こちらの二千円代の本を読もうと思っただけだ。

 経済学理論は、グラフや数学をみると思考停止反応をおこす私にとっては理解不可能な代物だ。20年ほど前、私はどこかの大学で経済学の授業をうけていたが、自分の頭が社会学や思想に適していると知ったころには遅すぎたのである。

 なお、このデビッド・フリードマンはミルトン・フリードマンの息子だそうで、私はこの父の『選択の自由』にはおおいに感銘したのでこのようなわかりやすい書を期待したのだが、おおいに期待は外れた。





 ■雇用が守られることの人生の損害        2006/4/25

 『日本型資本主義と市場主義の衝突』 ロナルド・ドーア
 東洋経済新報社 2001/12 2400e

 


 経済活動に頭が弱い私がこの本を評する資格はない。株式重視企業への変化や日本の取引関係がどのようなものなのか、ちょっと勉強させてもらっただけの本になる。ほとんど心に訴えかけるものはなかった。

 日本の企業というのは、従業員に雇用と賃金を守るための「共同体」であるという指摘は、そうだよな〜と思う。私は会社というところは、個人が金を稼ぐために一定時間集まって、それ以上は拘束されたくないし、保障もしてほしくないと思っている。

 日本の企業はあまりにも雇用が守られるために、たんなる経済機能でしかないものが、「運命共同体」のようなものになってしまっているのである。そのおかげで個人にはまったく自由がなくなってしまっている。私はこんな企業のあり方に嫌悪してきたので、もっとドライな経済機能に企業はなるべきだと思っているのである。

 戦前の企業は英米の企業に似ていたそうである。従業員重視より株主重視であったし、労使関係は対立的なものもあったそうだ。戦争によって企業は生活保障の団体となり、個人は人生のおおくを呑みこまれてゆくことになったのである。

 福祉は企業がになうべきではない。そんなことをすれば、企業は経済機能でなくなり、「家族」や「慈善団体」になり、個人はどこまでも滅私奉公を強いられる。福祉はいろいろなものに分散されることが必要だと思うのである。

 しかしはたして市場主義は個人の企業からの解放をもたらすだろうか、あるいは尊厳も権利も奪われた無力な個人を生み出すだけなのか。この本ではそのような問いはなかった。





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