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 ■060204書評集


 ■労働コスト削減のターゲット            2006/2/4

 『雇用破壊 非正社員という生き方』 鹿嶋敬
 岩波書店 2005/11 1700e

 


 非正社員は約5000万人の雇用労働者のうち、約1500万人の時代になった。三人に一人である。女性の半数が非正社員の職についており、男性は八割が正社員である。ただし若者では半数近くが非正社員である。女性問題であり、若者の問題なのである。ということは未来の問題でもある。

 問題が政治でとりあげられたり、労働問題として問題視されたり、マスコミが非難キャンペーンをおこなったりしない病的といえる状態がしずかに進行している。国民はテレビがたれ流すニュースのバカ踊りに夢中になって、自分の足元の深刻さが見えないのである。

 けっきょくのところ、非正社員の増加は90年代後半以降の不況脱出で、どれだけ人件費が経営を圧迫しているか、その削減が人件費の安い東南アジアとの競争に打ち勝つ道だと企業が学んだ結果なのである。世界での日本の物が高くなるということは、人件費も高くつき、労働コストの削減が急務になるということである。

 とうぜん人件費をカットしようとするのだが、中高年正社員は守られていてできない。まずは夫の扶養に守られている中高年女性たちをパートで雇い、味をしめた企業は若者たちをつぎのしわ寄せに選んだのである。高い人件費は中高年には温存して、人件費と社会保険料のカットを女性と若者に押しつけたのである。人件費をカットするという難しい問題を、扶養の傘にある女性となにもしらない新卒の若者に背負わせたのである。だから女性も若者も既得権層の中高年の親父にぶら下がるのである。

 非正社員は正社員に比べて安すぎる。一時的・臨時的な非正社員であったはずが、フルタイムで働く人も増えた。かつては時間の自由が利くはずだった非正社員も、正社員なみの忙しさもありうるということになった。しかも雇用期間で区切られる派遣や契約で不安も拭い去れない。社会保険が払われないことも当たり前だ。正社員なみの無法な乱用がおこなわれているのである。

 といっても忙しすぎの正社員が若者の垂涎の的になるとも本音ではいえない。正社員になったら終電帰りは当たり前で、自由な時間がもてないという恐怖感に近い拒否反応があるのである。

 日本の自殺率は世界第十位。上位から九位まではリトアニア、ロシア、ベラルーシといった旧社会主義の国々が占める。つまり日本は社会主義をやってきて、その崩壊の衝撃が自殺の多い50代を襲っているのである。中高年は社会主義の終焉に脅え、若者は社会主義に守られない市場主義を生きるといった二つの世界と時代が同時進行している。

 若者は安く社会保険のない世界を生き、そして女性は貧困化が進んでいるともいわれる。女性は男にぶら下がろうとするが、もはや「男性・正社員・世帯主」といった時代は終わろうとしている。会社が若者男性の社会保障の面倒をみなくなったときに、女性の扶養も不可能になるのである。

 男女平等社会というのは、男が大黒柱の役割から落ちたときに、はじめて実現の芽が生まれるのだろう。早く男の経済力を当てにする女性がいなくなってほしいものである。病的な男の働きすぎはこの女性との関係が許してきたのである。

 非正社員の時代は価値観や意識のあり方、制度やルールの大きな改革が必要になる。むかしの当たり前や常識である考え方をごっそり入れ替えなければならないのである。大切なのはこれまでの「正しい」と思われてきた生き方の意識をスクラップすることである。親がくり返す「正しい」生き方をめざせば、若者は自分を追いつめることになってしまう。若者は新しい未来を生きなければならないのである。

 ▼若者の転落とその言説
 





 ■いまアラン・ド・ボトンの『もうひとつの愛を哲学する』を読んでいるが、かなりよい本である。ステータスに人びとがどのようにとり憑かれてきたか、悲しいほどにえぐり出している。

 『もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安』 アラン・ド・ボトン

 


 私たちは人から見下されたり、軽蔑されたり、侮辱させられたりすることを死ぬほど恐れているのである。だから金や地位や名誉を必死に追い求めるのである。それらの華々しい成功の物証はすべてかれが負ってきた心の傷だと見なせるのである。

 孔子は「利益より、正義を求めよ」といったそうである。ステータスより、無名であるが、道徳的に正しい人のほうがどんなにすばらしいことか。いまの世の中はそういった美徳がすっかり忘れ去られている。利をとるより、正しい人でありたいものである。

 やはり私の中にもステータスを求める気持ちは拭いがたく植えこまれている。私が解毒剤としてもとめた先人たちの知恵とは以下のようなものである。またまた再UPします。とくにアウレーリウスとショーペンハウアーは私の心の言葉となっているし、洪自誠やクリシュナムルティにはひじょうに納得させられる。
                            2006/2/5


  富・栄誉・権力についての名言集
 ▼1999/9/18編集 2005/2/8再UP 2006/2/5再編集


 ――マルクス・アウレーリウス『自省録』 

 ■それともつまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみやかにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるものを、喝采の響きの空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変わりやすいこと、思慮のないことを、以上のものを囲む場所の狭さを。 

 ■死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消えて行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにその記憶全体が消滅してしまうことを。

 ■もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう。そして名前なんていうものは単なる響、こだまにすぎない。人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るにたらない。

 ■名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にある思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。

 ■昔さかんに讃めたたえられた人びとで、どれだけ多くの人がすでに忘却に陥ってしまったことであろう。そしてこの人びとも讃めたたえた人びともどれだけ多く去って行ってしまったことだろう。


 ――ショーペンハウアー『幸福について』 

 ■対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。

 ■他の人たちに見られるような、単に実際面だけの生活、単に一身の安寧をめざしただけの生活、深みの進歩がなく単に延長的な進歩しかなしえない生活は、この知的な生活に比べれば悲惨な対照をなすものだけれども、彼にとっては単なる手段にすぎぬこうした生活を、世の常の人は、それをそのまま目的と認めざるをえないのである。

 ■富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢にのみによって測ろうとする。――ところでこういったことはすべて夫子みずから精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。


 ――洪自誠『菜根譚』
 ■豪奢な人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。

 ■世人は名誉や地位があるのが楽しみであることを知っているが、名誉も地位もない者の方が、もっとも真実な楽しみを持っていることを知らない。また、世人は飢えとこごえで衣食にこと欠くのが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを抱いていることを知らない。

 ■富貴の家の中で生長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは激しい炎のように盛んである。

 ■栄位のゆえに我を人が尊ぶのは、この身につけた高い冠や大きな帯のためである。微賎のゆえに我を人が侮るのは、この身につけたもめんの衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もともと我を人が尊ぶのではないから、どうして喜んでおられようぞ。もともと我を人が侮るのではないから、どうして腹を立てておられようぞ。

 ■権力の強い者に従い、勢力の盛んな者に付くという人生態度のわざわいは、(権勢の座から失脚したとき、当然であるが)、非常に悲惨なものであり、またその報いも非常に早い。(これに反して)、心の安らかさを住み家とし、気楽な生活を守るという人生態度の味わいは、(一時的な濃厚さはないが)、きわめて淡白であり、またその楽しみも最も永続きするものである。

 ■(人間の欲望には限りがない)、物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても、その上に玉をもらえなかったことを恨み、公爵の爵位を与えられても、その上の領土を持つ諸侯にしてくれなかったことを恨む。このようにして権門豪家でありながら、我からこじき同然の心ねに甘んじている。
 (これに反して)、ほどほどで満足することを知る者は、あかざのあつものでも、よい肉や米よりもごちそうであると思い、布で作ったどてらを着ても、高価な皮ごろよりも暖かいと思う。このようにして貧しい庶民でありながら、心ねは王侯貴族よりも満ち足りている。

 ■財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持より貧乏人の方が、失う心配もなくてよいことがわかる。また地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分のない庶民の方が、(つまずく心配もなく)、いつも安心してられてよいことがわかる。

 ■高い冠に幅広い帯をつけた礼装の士人も、ふと、軽いみのに小さなかさをつけた微服の漁夫や農夫たちが、いかにも気楽に過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、うらやましいと思わないでもなかろう。また、豪家なじゅうたんの上で暮らしている富豪も、ふと、竹すだれの下で小ぎれいな机に向かって読書している人が、いかにも悠然として静かに過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、慕わしい気持を起こさないでもなかろう。
 それにもかかわらず、世人はどうして、尻尾に火をつけた牛を駆り立てるように、また、さかりのついた馬を誘い寄せるように、(功名富貴を求めることに血まなこで)、そうしてばかりいて、自分の本性にかなった悠々自適の生活をすることを思わないのであろうか。

 ――荘子 

 ■お前さんは名声をとうとばれているようだが、名声というものは公共の道具、財産であり、自分だけが欲ばって多く得ようとしてはならないものだ。
 富をよしとして追求するものは、自分の財産をゆずることができず、高い地位にあることをよしとするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えることができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身となっている人間だというほかない。

 ■会うものは必ず離れ、成功するものは必ず失敗するときがあり、きまじめで角のあるものは挫かれて辱められ、地位が高くなれば批評の的になり、何事かを行なおうとするものは妨害を受け、賢明であれば謀略にのせられ、暗愚であれば欺かれるという始末である。これでは世のわずらわしさからのがれようとしても、どうしてそれができようか。あわれというほかない。

 ■小人は財貨を追い求めて身を破滅に陥れ、君子は名声を追い求めて身を犠牲にする。

 ■天下の人びとは、こぞって外物のために自分の身を犠牲にしているといってよい。ところが、仁義のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを君子とよび、貨財のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを小人とよぶ。自分の本性を犠牲にしていることでは同一であるのに、君子と小人の区別をつけるのである。


 ――老子 

 ■欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、(他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。 


 ――寒山 

 ■貪欲心の旺盛な人間は好んで財産を集めるが、これはあたかも梟が子供を愛するようなものである。その子供は成長すると母親を食べてしまう。財産が多くなればなるほど、かえって自分の身を害することになる。財産を人に恵むなどして無くすれば福が生じ、財産を蓄えるのであれば災難が起って来る。財産も無くまた災難も無ければ、青空の雲の中で翼を自由にはばたくことができる。 

 ■世間の人がうまく体裁をつくろうのを別に羨ましく思わない。世間の人が心身を使い果たしているのは名利のためであって、あらゆる貪欲をもってして自分の体を前進させている。夢幻のようなはかない人生は、あたかも燈火の燃え残りのようなもので、末は墓の中に身を埋めることになりはしないか、そうなるに決まっている。

 ■俗世間の人々を見ると、塵や埃が立ちこめてぼうっとしている道を気忙しく歩いて行く。人生における究極または肝心なことが何であるかを知らずに、いったいどうして船着き場を見つけようとするのだろうか。栄華というのはいつまで持続するのだろうか。親族というものはほんの暫くの間の血のつながりである。たとえ莫大な黄金が自分の所有になるにしても、林の下での貧困な生活にはとても及ばない。


 ――吉田兼好『徒然草』 

 ■財宝を持っていると、自分の身を守る上に、事を欠くようになる。と同時に、害を引きよせ、煩を招く媒介となるものだ。利欲に迷うのは、とんでもなく馬鹿な人なんだ。

 ■蟻のように集まって東西に急ぎ、南北に走ってい人間ども。彼らがせわしそうにしていることはいったい何だ。生命を貪り求め、利欲を求めて、飽きるときがない。待ち受けているものは、結局、老と死にすぎない。


 ――アンゲルス・シレジウス『瞑想詩集』 

 ■最も貧しい人こそ最も自由な人
 財産の乏しい人は何より自由である。だから正に心貧しい人ほど自由な人はないのだ。

 ■放念した者は損をしても悩まない
 この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。

 ■平穏無事を求める者は、多くのものを見逃す
 人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなくなるだろう。

 ■欲の深い者は足ることを知らない
 足ることを知っている者はすべてをもっているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くのものを得ても、まだまだ足りないと思うのである。

 ■賢明な集め方と愚かな集め方
 守銭奴は愚かな者だ。彼は滅びゆくものを集めようとしている。施しを好む者は賢明な人間だ。彼は滅びぬものを得ようとしている。

 ■賢者と守銭奴の金のしまい場所
 賢者は賢いから金が入ると寄金箱に入れてしまう。ところが守銭奴はその金を心の中にしまい込もうとするから心の休まる時がないのだ。

 ■富は心の中にもつもの
 富はあなたの心の中になければならない。心の中にもたなければ、たとえ全世界を所有したとしても、それはあなたの重荷になるだけだ。


 ――ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』
 ■私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを想像する力さえ失っている。
 その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、私たちの所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって生きぬこうという心、責任を問われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を投げ出す権利、――要するに、むしろ闘志的な覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、ということであった。

 ■たいていの場合には、富を得ようとの熱望と、富を失いはしまいかという恐怖心とが、おもに臆病を生み、腐敗を広めているのである。貧を恐れない人が自由人となっているのに、富に縛られている人が奴隷たらざるをえないのである。


 ――ジッドゥ・クリシュナムルティ『未来の生』 

 ■この財産は自分のものだ、他の誰にもそれを渡したくないと思うから、私たちの所有物を保護してくれる政府を作り上げてしまうのである。……君たちが権威を生み出してしまうのは、安全な行動のしかた、確実な生き方を求めているからだ、ということだ。まさに安定を追求すること自体が権威を生み出し、そしてそれゆえに君たちはたんなる奴隷、機械のなかの歯車になり、何も考える力も創造する力もなしに生きる羽目になるのだ。


 ■私たちは、自分に確かさを感じさせてくれるものを望み、多種多様な保護手段を備え、内面的ならびに外面的な保護物で身を固める。自分の家の窓と戸を閉めて内にこもると、私たちはとても安心し、安全で、煩わされないでいられると感じる。……私たちが恐れ、自分自身を閉じれば閉じるほど、それだけ私たちの苦しみはつのる。

 ■君が野心的なとき、宗教的にまた世俗的な意味で君がひとかどの者になろうと努力しているとき、もし君自身の心をのぞきこんでみれば、君はそこに恐怖の虫がいるのを見出すことだろう。
 野心的な人間は、誰よりも一番恐れている人間である。なぜなら彼は、あるがままの自分であることを恐れているからである。彼は言う。「もし私がいまのままの自分だったら、私は何者でもない。それゆえ、私はひとかどの人間にならなければならない。知事、判事、大臣にならなければならない」

 ■私たちはより多くを望む。成功を望み、尊敬され、愛され、見あげられること、強くなること、有名な詩人、聖者、雄弁家になること、総理大臣や大統領になることを望む。……この切望は私たちが不満であること、満足していないことを示している。……そしてより多くの衣服、より多くの力等を手に入れることによって、自分の不満から逃避できると考えていることを意味している。……私はただ、衣服や権勢、車といったものでそれをおおい隠したにすぎないのだ。

 ■自分が重要だということの気持は、必然的に葛藤、苦闘、苦痛をもたらす。なぜなら、君はたえず自分の重要性を維持しなければならなくなるからだ。


 ――ヘンリー・ソーロー『森の生活』 

 ■たいがいの人間は、比較的自由なこの国においてさえ、単なる無知と誤解からして、人生の人為的な苦労とよけいな原始的な労働とに忙殺されて、その最もうつくしい果実をもぐことができないのである。……じっさい労働する人間は毎日真の独立のための閑暇をもたない。

 ■大部分の贅沢は、そして多くのいわゆる人生の慰安物は、人類の向上にとって不可欠でないばかりでなく、積極的な妨害物である。贅沢と慰安に関しては、最も賢い人々はつねに貧乏人よりもっと簡素で乏しい生き方をしてきた。

 ■どうしてわれわれはこうもせわしなく人生のむだづかいをして生きなければならないのか。われわれは空腹にならない前に飢え死にすることに心を極めている。……仕事仕事というが、われわれは大切な仕事なんかしていない。われわれは舞踏病にかかっているので頭をしずかにしておくことができないのだ。 


 ――ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』 

 ■彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得意になって自慢する。そして自分の奴隷状態を誇り、それにあずかる名誉をもたない人たちのことを軽蔑して語るのである。

 ■おのおのが他人の不幸のなかに自分の利益を見いだすというような商業について、人々はなんと考えてよいのだろうか。……自分の同胞の損害のなかにわれわれの利益を見いだし、一方の損失はほとんど常に他方の繁栄となるのである。


 ▼私の考えた言葉たちです。
   人間の比較序列を超える断想集 99/10/30.
   「なぜ人より優れたり、勝ちたいと思うのか」 99/4/30.
   「社会的劣位を怖れる心」 99/3/31.


 Special Thanks!
 

 



GREAT BOOKS

 ■ステイタスよ、さようなら。              2006/2/10

 『もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安』 アラン・ド・ボトン
 集英社 2004 3200e

 


 読んでよかった。いまの世の中では金持ちになったり、いい会社に入ったり、有名になったりしなければならないと思うのがふつうだが、そういうステイタスを問う本が意外に少ないのだ。心理学や社会学、経済学に名だたる名著がないというのが驚異である。

 みんなステイタスをめざすが、それはほんとうに必要なものなのか、私たちを幸福にするのか、それを得られない不幸に悩むことはないのか、と問われることはほとんどない。私たちは生まれたときから上をめざせと教えられるが、その前にまずステイタス自体を問うことが必要なのだと思う。ステイタスは大半の人が得られないのがふつうなのだから。ステイタスの欲求は私たちを傷つけ、責めさいなますばかりではないのか。

 著者はまずステイタスの欲求はもうひとつの愛の欲求だと定義するのが秀逸である。異性や親から愛される欲求と同じように、人は世間からも愛されたいと願うのである。愛されない恐れが人を高いステイタスへと駆り立てるのである。ゆえに贅沢の歴史は、愛されたいと叫んだ心の傷の記録と読むことができるのである。

 私たちの社会は平等な民主制社会である。そのために容赦のない拷問の世界になった。なぜならどんな人も生まれつき平等であり、無限の可能性があり、だれだって社会の頂点に立てると煽る社会は、失敗や落伍の慰めをちっとも与えてくれないからである。

 成功した者は成功に見合う存在であり、失敗者は失敗に見合う存在なのである。低いステイタスは情けさの上に当然の報いという屈辱を与える。身分制度の時代は夢もない代わりに個人に背負わされるこのような深い絶望もなかったのである。

 しかも実力社会では富をもつことが、性格や道徳的にも立派な人物であると思われるようになってしまう。金はその人物の総合評価になってしまったのである。貧しさは生活が苦しいばかりではなく、人物的にも劣るとなってしまったのである。この第T部のステイタスを煽る社会の分析が、歴史から解き明かしていて圧巻である。

 アラン・ド・ボトンは第U部からステイタスの傷を癒す方法を提示する。哲学、芸術、政治のぞれぞれから、そして死を思うこととボヘミヤンの生き方に。

 19世紀と20世紀の小説は財産や家柄のヒエラルキーより道徳的な資質を優先するメッセージが語られていたというのはうれしい驚きである。オースティンの『マンスフィールド・パーク』、バルザックの『ゴリオじいさん』、ハーディの『日陰者ジュード』、エリオット『ミドルマーチ』、サッカリーにディケンズに。世間のヒエラルキーに比して、文学の賢明さに私は感銘した。金ぴかヒエラルキーのバカだけですべてではなかったのである。

 ほかにボトンは価値のないものを描いて価値の転倒を図った絵画や、ジョークや風刺喜劇のなかや、さまざまな時代や地域の相対化の視点などを集めてきて、ステイタスの傷を癒す方法を提示する。

 「メメント・モリ(死を思え)」の章が圧巻である。人は死んでしまえば財産も名誉もなんの役にも立たない。権力者も富める者も有名な者もひとしく死はそれを無にするのである。恵まれていたからこそ、そのためにこそ、かれらには無名で無視される存在より数段手痛い衝撃になるのである。

 トルストイがすごい。「いいだろう、きみはゴーゴリやプーシキンより、シェイクスピアやモリエールよりも、それどころか世界中のどの作家より有名になれるとして――それで、どうしたっていうんだ? わたしはまったく何の答えも見つけられなかった」。世界的に有名で、金持ちの彼は、自分や神の価値ではなく、世間の価値にしたがって生きたことを後悔するのである。

 また画家たちも廃墟を描くことで栄華のむなしさを鋭く批判した。そして現代の尊大な連中へのひそかな仕返しとして。なるほど、SF映画やSFマンガでくりかえし描かれる文明崩壊後の未来とはこういうことをあらわしていたのか。ざまーみろ、エラそーにしている現代のやつらめということである。同じように広大な風景も人間のちっぽけさ、むなしさを思い知らせるのにじゅうぶんである。大自然や宇宙と比べると、人間の優劣なんて無にひとしいのである。

 さいごの章に世俗の価値を否定したボヘミヤンの生き方が紹介されているが、日本人はもっとむかしからそのような生き方を実践してきた歴史があるのである。吉田兼好や鴨長明、良寛や山頭火などの隠遁者や仏教者がいるのである。ほとんどは中国思想の影響からだが、中国ははるかむかしから世俗の価値基準をずっと否定する思想をくりひろげてきた歴史と伝統があるのだ。そんな賢明な知恵をもつはずの日本人はどうして西洋の金ぴか価値観にすっかりバカにされてしまったのだろうか。

 すぐれた本であった。他人からどう思われるかという印象にひきずり回される人生の愚かさにあらためて警戒したいものである。

 なお、私もステイタスから堕ちこぼれた者として、ステイタスの愚かさから脱走したいために、おおくの本からその方法を学ぼうとした。ショーペンハウアーの『幸福について』、マルクス・アウレーリウス『自省録』、櫻木健古『捨てて強くなる』、中野孝次『清貧の思想』、洪自誠『菜根譚』、クリシュナムルティ『未来の生』などからとくに多くを学べた。書物は私たちに賢明な知恵を授けてくれるのである。

 有名や金持ちであるという価値観は世間では圧倒的である。自分の価値はそういう風潮の前では風前のともし火である。吹き消されるように思ったときにはこの本のおおくの知恵が私たちを慰めてくれるのだろう。

 ▼ステイタスの恐れを捨てる私のベスト本
 





 ■人生論としての社会保障を問え。         2006/2/11

 『社会保障を問いなおす―年金・医療・少子化対策』 中垣陽子
 ちくま新書 2005/5 740e

 


 基本的に私は社会保障の根本的な思想やあり方自体が問われなければならないと思っている。国家や企業が面倒を見るような生き方は、はたしてわれわれの自由な人生や多様な選択を奪っていないかと思うのである。政府に人質をとられるような社会主義的な生き方はおぞましいものである。そういう生き方や思想の根本が問われないこと自体がおかしいと思うのだ。

 小手先や先送りの改革ばかりが議論されるが、私たちひとりひとりの生き方として、こんな政府に人生を保障される生き方、あるいは政府に緊縛される生き方は、われわれの自由と家族の絆や共同体の相互扶助をブチ壊してきたのではないのかと考えるべきだと思う。政府に人生を決められる恐ろしさと、政府に保障される人生の代償は私たち個人の人生や生命や時間であったことを思うべきである。社会保障はいつの世も戦争から始まり、国民に血と生命の犠牲を要求するのである。

 私は年金も健康保険もなくしていいと思っている。そもそもどうしてこのような制度が歴史上に必要とされたのか、そういう思想自体が問われないのがおかしい。これは社会主義の思想から生まれたものではないのか。スターリンやポルポト、キム・イルソンを生んだ思想が、いまだにわれわれの人生を規定しているというのは異常ではないか。日本の社会保障はこういう文脈から捉えなおすことが必要だと思うのである。

 現実問題としては年金や医療保険は存続してゆくだろう。東大卒のお役人エリートの著者がいうように、かんたんに単純な一律的な制度のほうがのぞましいだろう。働き方や生き方による不公平は、国民の自由の選択を奪うものである。というか、人生をお役人に強制収容所送りにされてしまうのである。もうすこし優しくいいなおすと、人生行路を人間の知能で決めつけてしまうことは不可能である。

 いずれにせよ、日本の企業もパートをつかったりして政府の社会保障から逃げ出すことばかり画策しているし、高すぎる保険料に払えない若者が続出するのはまちがいない。日本人は政府の社会保障をほとんど支持していないのである。たぶんに社会保障は貧困が社会の大問題であった時代にしか渇望されないものなんだろう。

 私は人生論や生き方として社会保障が問われなければならない時代に来ていると思うのである。なぜ思想や哲学が問われないのか。

 それにしてもいちばん驚いたのは、医療の価格がすべて中医協という機関で決められることである。こんな制度にしてよくマルコスやイメルダ夫人が現れなかったものだ。恐ぇ〜。ハイエクのいうように人間の知能には限界があるので、市場の価格にゆだねるしかないのである。こんな決定が一部の人にだけ集中させられる恐ろしさにぞっとする。社会主義はまさしくそのような権力の集中をおこなってスターリンやポルポトを生み出したのである。医療の世界って北朝鮮みたいになっていないのか恐ろしい。

 





 ■頭を抱えたくなる官僚の社会主義天国        2006/2/14

 『日本の医療を問いなおす―医師からの提言』 鈴木厚
 ちくま新書 1998/10 680e

 


 月3万も4万もとられる国保料のバカ高さから医療の世界を問う気になった。数年に一度医者にかかるか、かからないかの私が、毎月こんなバカ高い金額を払うなんて常軌を逸している。どうにも納得できない。いまでは保険証がない。少なくとも私の身の上には「国民皆保険制度」はない。

 この本を読むと、「うわわわわ〜」と嘆きたくなることばかりだった。とくに厚生省の官僚が診察の値段や政策まですべて決めていることには頭を抱えた。まったく社会主義統制が生きているのである。

 90年代にドミノのようにソ連や東欧の社会主義が崩壊したのに、社会主義の北朝鮮を思いっきりバカにして笑っているのに、医療の世界はいまだに官僚による社会主義がつづいているのである。社会主義は権力の集中により独裁者を生む。スターリンやポルポト、キム・ジョンイルの歴史に日本人はなにも学ばなかったのか。郵政民営化どころではない。

 日本の医療の問題は診察料が官僚に安く抑えられているからだと医者である著者はいう。初診料は散髪代より安い2500円、再診料はラーメンなみの590円だ。これでは医者や看護士を増やすことができない。三時間待ちの三分診察、そして看護士が病院を駆け回ることになる。

 なによりも医療はタダという感覚があるために、高い診察料のために医者にかかることをあきらめるということがない。そのために医療料が増大する。患者にも医者にも金銭感覚やコスト意識がまったく働かないのである。カネによる垣根がないためにほんらいならそうとう高くなるであろう医療の垣根が低く抑えられているのである。この世は貨幣社会であるのに、金銭感覚がまったく働かない異常な世界が現出しているのである。それを天国というのなら、地上には長くつづかない。

 ふつうのモノの値段は安ければおおくの人が買うが、高ければ買う人が少なくなる。医療ではそういう金銭感覚がまったく働かず、高ければやめようということにならない。制限や抑制がないのである。

 100人の住民がひとり一万で町内会の医療費を運営しようとすると、ひとりがガンで100万使い果たすと、ほかの人はもう医者にかかれない。この規模ならわかることが国民全体の保険となると、この感覚がまったく欠如してしまう。健康保険という財源は現実のカネから遊離してしまう絵空事になってしまうのである。

 ほんと、この健康保険ってなんなのだろうなと思う。市場の感覚が働かない官僚が一方的に診察やクスリの値段を決め、許認可や保険取り消しの生殺与奪の権利をもち、戦後一社の倒産もない製薬業界を儲けさせるクスリの値段も決め、そこに天下る。官僚の社会主義天国である。もしかれらが武力や軍隊をもっていたら、スターリンやポルポトの誕生になっていただろう。

 昭和58年に老人医療費の七割を保険組合が負担しなければならなくなった。国民健康保険も、大企業の健保組合も、政管健保も、軒並み赤字に転落する。そして保険組合は病院への医療費の支払を拒否しはじめ、財政の苦しい自治体は保険料の払えない人たちから保険証をとりあげるようになっていったのである。

 生命は地球より重いというきれいな言葉があるが、カネのない世界で世の中を動かすことは不可能である。カネがないから医者にかかれない世界というのはつらい。しかしそれこそが人間の世の中というものであり、カネがなければ多くのものをあきらめなければならないというのも現実である。もうそろそろ健康保険という天国のまねごとはやめて、ふつうの市場に返すべきではないかと思う。社会保障は貧困層のみに残されるべきものではないのか。ただ、もう少しこの件については考えてみたいと思う。

 





 ■若者の意欲のせいにするな。         20006/2/18

 『ユリイカ 特集 ニート 新しい文学はここから始まる』 2006年2月号
 青土社 2006/2 1238e

 


 社会評論をしたい人が増えた。90年代の犯罪心理学ブームからはじまったのか。あるいはオウム真理教事件からなのか。ひきこもりが騒がれて、ニートは「待ってました!」とばかりの格好のネタになった。

 社会評論の問題は、犯罪心理学ブームのときのようにじっさいに殺人を犯してしまう道化役をつくりだすことだ。犯罪少年のプロフィールに釘づけにされたことのある者は深刻に反省しなければならない。われわれの興味こそが犯罪少年をつくりだしたのではないかと。ニートの爪あとにはなにを残すのだろうか。

 私は雑誌はあまり好きではない。読みたくないものがたくさん載せられているからだ。この読まないスペースに金を払う気になれないのだ。本なら一直線にさいごまで読むだけでいいのだけれど。

 私のニートの関心は私のようなアンチ労働至上主義者なのかということだ。あるいはたんに働けないという問題なのか。フリーターのあとに出てきた問題とするのなら、私との親近性もだいぶ高い。私も貯金があったときには8ヶ月や半年ほどニートをやった(一人暮らしのためすぐに働かざるを得なくなるが)。アンチ労働はすぐにメシをどうやって食うかという問題にぶちあたる。

 この雑誌を読むと、無職というのはむかしから金持ちのぼんぼんとか、パチプロとか、なにをやっているのかわからない人たちがたくさんいたのだから、とりたててニートと騒ぐこともないことを思い出した。キリストもシャカもそうだし、天皇や有閑階級もそうである。文学も親近性がかなりあるのだ。ただ、いまのニートの問題は社会の入り口からつまづき、むかしの無職のようなしたたかさがないことだろう。

 ニート問題の立役者・玄田有史はこれは社会経済システムが原因だと言い切っているのに、若い者のやる気のなさこそが最大の原因であるような印象を世間に与えてしまっている。大人たちは自分たちの既得権益をいつの時代にも目隠ししたいのだろう。社会ってけっこうネズミ講である。また社会や経済を悪者にできなくなった心理至上主義社会のせいでもあるのだろう。労働争議やストライキ、一揆や打ち壊しのような言うべき怒りや反抗をつきつけられた倫理や正義はどこへいってしまったのだろう。





 ■許せない怒りを捨てられるか          2006/2/19

 『キレないための上手な「怒り方」』 デンテマロ&クランツ
 花風社 1995 1500e

 


 職場でブチギレそうなことがあるために緊急に読む。私はムカついて相手の無視を決めこみ、相手は抵抗するためにますます騒いで、私はますますムカつく。殴ってやろうかとも考えている。

 私は基本的に穏やかな人間だと思っているが、許せないことにはなかなかゆずれない。職場でもさいしょの1、2年は無邪気に笑って過ごせるけど、だんだんムカついてきて沈黙してゆくパターンが多い。なんでだろうと思う。私が怒ることでまわりにも波及してゆき、人によって反応はまちまちであるが、不快な種を蒔いているのはたしかである。

 怒りについてはジャンポルスキーの『愛と怖れ』にたいへん重要なことを学び、怒りを捨てることの実際的な効果を私は知っているはずである。人を「直そう」とすることは攻撃であり、人は怖れによって防御しようとするのである。だから怒りの感情を捨てれば、相手の腰を折り、拍子抜けさせてしまうのである。

 だけど、許せいな場合の怒りはどうするのかという課題は残っていた。どうしてもその人が許せいな時には私は怒りを捨てるべきなのか。私の「正しい」ことをしているんだという気持ちや、「直さなければならない」と思っていることを、手放して、相手と和解することはできない。

 さいごの手段として無視を決めこむことになるのだが、これをすると、相手はしゃべり、騒ぐという抵抗手段に出る。持久戦になる。私が怒れば相手の思いのツボにはまったわけだが、いつまでもいやがらせをつづけられると、私もガマンが限界になる。

 ということで職場で殴る前に緊急に怒りについて考え直そうということになった。この本の中ではさいごのほうに許すことについて書かれているが、やっぱり納得はできないのである。う〜ん、相手にしない無視という方法はまだ許すということではないのである。どうすべきなのか。

 この本で怒りについて銘記しておきたいことは、怒りはもしかして人によって呼び名が違う場合もあるということだ。この感覚を「わくわくする」「やる気がわいてきた」と思う人と、「怖れ」とか「いやになる感覚」と捉えている人もいるというのだ。

 怒りの感情をもつことは「悪い」ことだと思っている人は、自分が怒っていることすらわからなくなるし、怒りの表現もできなくなるということだ。いい人と怒りは両立するし、怒りが他人の迷惑になるのは人を傷つけるような表現をしたときだけである。怒りの感情を無下に否定するのはよくないのである。

 人は「不当な扱いを受けている」とか、無力感を感じたり、自尊心を傷つけられたりしたら、怒りやすい。キリストやシャカならこれは頭の中の「絵空事」の自分を守っているに過ぎないから、そんなものは捨てろというだろう。この方法は認知療法や、「自我」とは自己正当化と自己讃美キャンペーンにすぎないと喝破したベンジャミン『グルジェフとクリシュナムルティ』に多くを学べる。

 さて、私は相手を「直さなければならない」、「自分は正しい」と思う気持ちを捨てられるだろうか。どうしても許せいな相手を許すなんてことはできるのか。





 SENTIMENTALovers 平井賢 3059e

 


 平井賢はバラードだけ聴いていたい。ポップな曲は聞くにたえない。

 『思いがかさなるその前に……』を聴きたかった。

 ねぇ いつかキミは君の夢を忘れてしまうのかな
 その時は瞳逸らさずにキミと向き合えるのかな

 なんか年をとるごとに染みてくる詩である。

 ほかに『瞳をとじて』を聴きたかった。感動的で、心を洗ってくれるバラードである。CMや映画で聴いていて気に入った。積極的にラジオや音楽番組を見なくなった私は情報源はそのくらいしかないのである。このアルバムで上記以外に気に入った曲はない。
                 2006/2/26




 ■保障と自由に値しない日本人           2006/2/26

 『隷従への道―全体主義と自由』 フリードリヒ・A・ハイエク
 東京創元社 1944 2500e

 


 読みにくい翻訳文である。あるいはもともとの文章がわかりにくいのか。読みすすめるのにだいぶ時間がかかった。

 がぜん興味をひかれたのは第九章の「保障と自由」からである。読みたかったのはこれであると思った。

 「特権の与えられている人の数が増加し、彼らの保障と他の人々の差が大となるにしたがって、まったく新しい社会価値体系がしだいに発生する。社会的地位や身分を与えるものは、もはや独立ではなくて保障であり、青年に結婚適格性を与えるものは、青年の有為性ではなくて、年金を受ける権利となる」

 「優越性や地位が、ほとんどまったく国家の有給官吏になることによってのみ得られ、個人に決められた任務を履行することが、個人のためになる分野を選択することよりも称賛されるものと見なされ、公的階級の確定的な地位や一定の所得要求権を与えないすべての仕事が、劣等なものと見なされ、あるいはややもとすれば、不名誉なものとさえ見なされているところでは、多くの人々が長い間、保障よりも自由を選ぶというようなことを期待することはできない。

 従属的な地位における保障に代わるものが、最も不安な地位であって、個人は成功しても失敗しても、同様に軽蔑されるようなところでは、自由という対価を払うことを要する安全の誘惑に抵抗するものはきわめて少数であろう。

 事態がここまで進行すると、実際、自由はほとんど物笑いの種になる。というのは、自由というのは、この世の大部分のよきものを犠牲にして、はじめて取得できるものだからである。このような状態においては、ますます多くの人々が経済的保障がなければ自由は「もつに値しない」と感ずるようになり、彼らが自由を保障のために喜んで犠牲にするのは驚くに足りない」

 「われわれは自由というものが一定の価格を払って初めて得られるものであるということ、そして個人としてのわれわれが自由を保持するためには、きびしい物質的犠牲を払う用意をしなければならないということに、目を開くことを虚心に再認識する必要がある」

「僅かな一時的な安全を手に入れるために、根本的な自由を放棄する人は、自由と安全の両者をもつに値しない」――ベンジャミン・フランクリン

 ハイエクは50年後の現在の日本の状況をまるで目の前で見ているように語るのである。母親たちは息子に公務員になれといい、保障のしっかりした大企業に入れとすすめ、女性たちは結婚の相手をこのような政府に保障された男を探そうとする。ハイエクが嘆いた自由の消滅はこの日本において完璧に完成されたのである。

 ハイエクがいうには計画化や統制がヒトラーやスターリンを生み出したのであり、けっして社会主義国家だけの問題ではないと警告するのである。

 「国家が唯一の雇用者である国においては、反対することはしだいに餓死することを意味する。働かざるものは食うべからずという旧い原則は、服従せざるものは食うべからずという新しい原則に取って代わられる」――レオン・トロツキー

 日本は後進発展国のため計画化や統制がおおくとり入れられ、すこし前まではマルクス主義がおおいに流行った。社会主義はおおいに日本の中に浸透し、社会保障が国家だけではなく企業からも与えられるという東欧もびっくりの社会主義=企業主義国家になった。

 自由は死んでしまった。あるいは長らく存在せず、人々は自由がなんたるかを忘れてしまったのかもしれない。保障の奴隷ばかりの国になった。フリーターやニートはようやく奴隷労働のこの日本にはじめて自由を発見しはじめているのだろう。そして自由にはきびしい物質的犠牲がともなうことも、知ってゆくのだろう。





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