■いまアラン・ド・ボトンの『もうひとつの愛を哲学する』を読んでいるが、かなりよい本である。ステータスに人びとがどのようにとり憑かれてきたか、悲しいほどにえぐり出している。
『もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安』 アラン・ド・ボトン
私たちは人から見下されたり、軽蔑されたり、侮辱させられたりすることを死ぬほど恐れているのである。だから金や地位や名誉を必死に追い求めるのである。それらの華々しい成功の物証はすべてかれが負ってきた心の傷だと見なせるのである。
孔子は「利益より、正義を求めよ」といったそうである。ステータスより、無名であるが、道徳的に正しい人のほうがどんなにすばらしいことか。いまの世の中はそういった美徳がすっかり忘れ去られている。利をとるより、正しい人でありたいものである。
やはり私の中にもステータスを求める気持ちは拭いがたく植えこまれている。私が解毒剤としてもとめた先人たちの知恵とは以下のようなものである。またまた再UPします。とくにアウレーリウスとショーペンハウアーは私の心の言葉となっているし、洪自誠やクリシュナムルティにはひじょうに納得させられる。
2006/2/5
▼1999/9/18編集 2005/2/8再UP 2006/2/5再編集
――マルクス・アウレーリウス『自省録』
■それともつまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみやかにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるものを、喝采の響きの空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変わりやすいこと、思慮のないことを、以上のものを囲む場所の狭さを。
■死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消えて行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにその記憶全体が消滅してしまうことを。
■もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう。そして名前なんていうものは単なる響、こだまにすぎない。人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るにたらない。
■名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にある思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。
■昔さかんに讃めたたえられた人びとで、どれだけ多くの人がすでに忘却に陥ってしまったことであろう。そしてこの人びとも讃めたたえた人びともどれだけ多く去って行ってしまったことだろう。
――ショーペンハウアー『幸福について』
■対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。
■他の人たちに見られるような、単に実際面だけの生活、単に一身の安寧をめざしただけの生活、深みの進歩がなく単に延長的な進歩しかなしえない生活は、この知的な生活に比べれば悲惨な対照をなすものだけれども、彼にとっては単なる手段にすぎぬこうした生活を、世の常の人は、それをそのまま目的と認めざるをえないのである。
■富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢にのみによって測ろうとする。――ところでこういったことはすべて夫子みずから精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。
――洪自誠『菜根譚』
■豪奢な人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。
■世人は名誉や地位があるのが楽しみであることを知っているが、名誉も地位もない者の方が、もっとも真実な楽しみを持っていることを知らない。また、世人は飢えとこごえで衣食にこと欠くのが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを抱いていることを知らない。
■富貴の家の中で生長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは激しい炎のように盛んである。
■栄位のゆえに我を人が尊ぶのは、この身につけた高い冠や大きな帯のためである。微賎のゆえに我を人が侮るのは、この身につけたもめんの衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もともと我を人が尊ぶのではないから、どうして喜んでおられようぞ。もともと我を人が侮るのではないから、どうして腹を立てておられようぞ。
■権力の強い者に従い、勢力の盛んな者に付くという人生態度のわざわいは、(権勢の座から失脚したとき、当然であるが)、非常に悲惨なものであり、またその報いも非常に早い。(これに反して)、心の安らかさを住み家とし、気楽な生活を守るという人生態度の味わいは、(一時的な濃厚さはないが)、きわめて淡白であり、またその楽しみも最も永続きするものである。
■(人間の欲望には限りがない)、物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても、その上に玉をもらえなかったことを恨み、公爵の爵位を与えられても、その上の領土を持つ諸侯にしてくれなかったことを恨む。このようにして権門豪家でありながら、我からこじき同然の心ねに甘んじている。
(これに反して)、ほどほどで満足することを知る者は、あかざのあつものでも、よい肉や米よりもごちそうであると思い、布で作ったどてらを着ても、高価な皮ごろよりも暖かいと思う。このようにして貧しい庶民でありながら、心ねは王侯貴族よりも満ち足りている。
■財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持より貧乏人の方が、失う心配もなくてよいことがわかる。また地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分のない庶民の方が、(つまずく心配もなく)、いつも安心してられてよいことがわかる。
■高い冠に幅広い帯をつけた礼装の士人も、ふと、軽いみのに小さなかさをつけた微服の漁夫や農夫たちが、いかにも気楽に過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、うらやましいと思わないでもなかろう。また、豪家なじゅうたんの上で暮らしている富豪も、ふと、竹すだれの下で小ぎれいな机に向かって読書している人が、いかにも悠然として静かに過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、慕わしい気持を起こさないでもなかろう。
それにもかかわらず、世人はどうして、尻尾に火をつけた牛を駆り立てるように、また、さかりのついた馬を誘い寄せるように、(功名富貴を求めることに血まなこで)、そうしてばかりいて、自分の本性にかなった悠々自適の生活をすることを思わないのであろうか。
――荘子
■お前さんは名声をとうとばれているようだが、名声というものは公共の道具、財産であり、自分だけが欲ばって多く得ようとしてはならないものだ。
富をよしとして追求するものは、自分の財産をゆずることができず、高い地位にあることをよしとするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えることができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身となっている人間だというほかない。
■会うものは必ず離れ、成功するものは必ず失敗するときがあり、きまじめで角のあるものは挫かれて辱められ、地位が高くなれば批評の的になり、何事かを行なおうとするものは妨害を受け、賢明であれば謀略にのせられ、暗愚であれば欺かれるという始末である。これでは世のわずらわしさからのがれようとしても、どうしてそれができようか。あわれというほかない。
■小人は財貨を追い求めて身を破滅に陥れ、君子は名声を追い求めて身を犠牲にする。
■天下の人びとは、こぞって外物のために自分の身を犠牲にしているといってよい。ところが、仁義のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを君子とよび、貨財のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを小人とよぶ。自分の本性を犠牲にしていることでは同一であるのに、君子と小人の区別をつけるのである。
――老子
■欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、(他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。
――寒山
■貪欲心の旺盛な人間は好んで財産を集めるが、これはあたかも梟が子供を愛するようなものである。その子供は成長すると母親を食べてしまう。財産が多くなればなるほど、かえって自分の身を害することになる。財産を人に恵むなどして無くすれば福が生じ、財産を蓄えるのであれば災難が起って来る。財産も無くまた災難も無ければ、青空の雲の中で翼を自由にはばたくことができる。
■世間の人がうまく体裁をつくろうのを別に羨ましく思わない。世間の人が心身を使い果たしているのは名利のためであって、あらゆる貪欲をもってして自分の体を前進させている。夢幻のようなはかない人生は、あたかも燈火の燃え残りのようなもので、末は墓の中に身を埋めることになりはしないか、そうなるに決まっている。
■俗世間の人々を見ると、塵や埃が立ちこめてぼうっとしている道を気忙しく歩いて行く。人生における究極または肝心なことが何であるかを知らずに、いったいどうして船着き場を見つけようとするのだろうか。栄華というのはいつまで持続するのだろうか。親族というものはほんの暫くの間の血のつながりである。たとえ莫大な黄金が自分の所有になるにしても、林の下での貧困な生活にはとても及ばない。
――吉田兼好『徒然草』
■財宝を持っていると、自分の身を守る上に、事を欠くようになる。と同時に、害を引きよせ、煩を招く媒介となるものだ。利欲に迷うのは、とんでもなく馬鹿な人なんだ。
■蟻のように集まって東西に急ぎ、南北に走ってい人間ども。彼らがせわしそうにしていることはいったい何だ。生命を貪り求め、利欲を求めて、飽きるときがない。待ち受けているものは、結局、老と死にすぎない。
――アンゲルス・シレジウス『瞑想詩集』
■最も貧しい人こそ最も自由な人
財産の乏しい人は何より自由である。だから正に心貧しい人ほど自由な人はないのだ。
■放念した者は損をしても悩まない
この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。
■平穏無事を求める者は、多くのものを見逃す
人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなくなるだろう。
■欲の深い者は足ることを知らない
足ることを知っている者はすべてをもっているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くのものを得ても、まだまだ足りないと思うのである。
■賢明な集め方と愚かな集め方
守銭奴は愚かな者だ。彼は滅びゆくものを集めようとしている。施しを好む者は賢明な人間だ。彼は滅びぬものを得ようとしている。
■賢者と守銭奴の金のしまい場所
賢者は賢いから金が入ると寄金箱に入れてしまう。ところが守銭奴はその金を心の中にしまい込もうとするから心の休まる時がないのだ。
■富は心の中にもつもの
富はあなたの心の中になければならない。心の中にもたなければ、たとえ全世界を所有したとしても、それはあなたの重荷になるだけだ。
――ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』
■私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを想像する力さえ失っている。
その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、私たちの所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって生きぬこうという心、責任を問われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を投げ出す権利、――要するに、むしろ闘志的な覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、ということであった。
■たいていの場合には、富を得ようとの熱望と、富を失いはしまいかという恐怖心とが、おもに臆病を生み、腐敗を広めているのである。貧を恐れない人が自由人となっているのに、富に縛られている人が奴隷たらざるをえないのである。
――ジッドゥ・クリシュナムルティ『未来の生』
■この財産は自分のものだ、他の誰にもそれを渡したくないと思うから、私たちの所有物を保護してくれる政府を作り上げてしまうのである。……君たちが権威を生み出してしまうのは、安全な行動のしかた、確実な生き方を求めているからだ、ということだ。まさに安定を追求すること自体が権威を生み出し、そしてそれゆえに君たちはたんなる奴隷、機械のなかの歯車になり、何も考える力も創造する力もなしに生きる羽目になるのだ。
■私たちは、自分に確かさを感じさせてくれるものを望み、多種多様な保護手段を備え、内面的ならびに外面的な保護物で身を固める。自分の家の窓と戸を閉めて内にこもると、私たちはとても安心し、安全で、煩わされないでいられると感じる。……私たちが恐れ、自分自身を閉じれば閉じるほど、それだけ私たちの苦しみはつのる。
■君が野心的なとき、宗教的にまた世俗的な意味で君がひとかどの者になろうと努力しているとき、もし君自身の心をのぞきこんでみれば、君はそこに恐怖の虫がいるのを見出すことだろう。
野心的な人間は、誰よりも一番恐れている人間である。なぜなら彼は、あるがままの自分であることを恐れているからである。彼は言う。「もし私がいまのままの自分だったら、私は何者でもない。それゆえ、私はひとかどの人間にならなければならない。知事、判事、大臣にならなければならない」
■私たちはより多くを望む。成功を望み、尊敬され、愛され、見あげられること、強くなること、有名な詩人、聖者、雄弁家になること、総理大臣や大統領になることを望む。……この切望は私たちが不満であること、満足していないことを示している。……そしてより多くの衣服、より多くの力等を手に入れることによって、自分の不満から逃避できると考えていることを意味している。……私はただ、衣服や権勢、車といったものでそれをおおい隠したにすぎないのだ。
■自分が重要だということの気持は、必然的に葛藤、苦闘、苦痛をもたらす。なぜなら、君はたえず自分の重要性を維持しなければならなくなるからだ。
――ヘンリー・ソーロー『森の生活』
■たいがいの人間は、比較的自由なこの国においてさえ、単なる無知と誤解からして、人生の人為的な苦労とよけいな原始的な労働とに忙殺されて、その最もうつくしい果実をもぐことができないのである。……じっさい労働する人間は毎日真の独立のための閑暇をもたない。
■大部分の贅沢は、そして多くのいわゆる人生の慰安物は、人類の向上にとって不可欠でないばかりでなく、積極的な妨害物である。贅沢と慰安に関しては、最も賢い人々はつねに貧乏人よりもっと簡素で乏しい生き方をしてきた。
■どうしてわれわれはこうもせわしなく人生のむだづかいをして生きなければならないのか。われわれは空腹にならない前に飢え死にすることに心を極めている。……仕事仕事というが、われわれは大切な仕事なんかしていない。われわれは舞踏病にかかっているので頭をしずかにしておくことができないのだ。
――ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』
■彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得意になって自慢する。そして自分の奴隷状態を誇り、それにあずかる名誉をもたない人たちのことを軽蔑して語るのである。
■おのおのが他人の不幸のなかに自分の利益を見いだすというような商業について、人々はなんと考えてよいのだろうか。……自分の同胞の損害のなかにわれわれの利益を見いだし、一方の損失はほとんど常に他方の繁栄となるのである。
▼私の考えた言葉たちです。
人間の比較序列を超える断想集 99/10/30.
「なぜ人より優れたり、勝ちたいと思うのか」 99/4/30.
「社会的劣位を怖れる心」 99/3/31.
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