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■050902書評集
■感想も書く気がしない。 2005/9/2
『男の子女の子』 鈴木清剛
河出文庫 1999 670e
関西弁をしゃべる女の子はアホちゃうんかと思った。文章がヘタなのかとも思った。
小説ってなんのために会話や物語が書かれているのかわからなくなった。なんらかの意味や必然性がある会話や進行がおこなわれているはずだと思うのだけど、さっぱりその必然性がわからない。
最後の最後に、いや解説によってようやく「わけのわからない他者」、その大きく深い川について書かれているようだということがわかった。もうこれ以上感想も書く気がしない。
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■読書感想文の参考になるかもしれない。 2005/9/3
夏休みも終わり、読書感想文で検索してくる人が多いので、私なりのアドバイスをしてみたいと思う。ちょっと遅いかな。といっても私はいまだに小説の読み方がわからないし、小説の多くは十数年前に読んだうろ覚えだし、学生のときは小説なんかほぼ読めなかった。こういうことを書いたらいいんじゃないかというアドバイスしかできません。
『ハツカネズミと人間』 スタインベック 新潮文庫
この作品は「善人」について書かれているのではないかと思う。善人というのは人より優れていたらいけないから白痴のようにならざるを得ない。ここから脱線して人より優れたり、劣ったりすることの考察が広げられるのではないかと思う。優秀さというのは他人を劣ったものにするのではないかということを考えてみるのもいいのじゃないかと思う。
『蝿の王』 ゴールディング 集英社文庫
無人島での子どもたちの勢力争いは人間の戦争や集団の争いをみごとにあらわしている。権力争いはじつは教室の中でもおこっているものである。びみょうな階層や序列があったりする。そういう自分のクラスの権力派閥を作品にひきつけて考察してみるのもいいと思う。あるいは自分のクラスを無人島において戦わせてみるのも楽しいかもしれない。
『車輪の下』 ヘッセ 新潮文庫
世間体を気にする親と好きなことをしたい子とはいつの世でも対立するものである。『車輪の下』にかこつけてひごろの親の批判をしてみるのもいいし、親の理想や世間体を考察してみるのもいいだろう。自分のやりたいことと、親の期待は合うのだろうかと考える機会にすればいいと思う。
『異邦人』 カミュ 新潮文庫
これは不条理について書かれた作品だといわれるが、私は人と同じ感情をもたなければならないという感情に対する怒りを描いた作品だと思っている。みんなが楽しいときには楽しいふりをしたり、悲しいときには悲しいふりをしなければならないという強制に対する怒りである。人に合わせること、みんながしているから自分もしなければならないことに対する怒りを書いてみるのもいいと思う。
『月と六ペンス』 モーム 新潮文庫
芸術に憑かれた男と俗っぽい世間の対立が描かれた作品だったかなと思う。金とか出世の世間体を離れて、まったく自分の好きなことだけに没頭できる人生をうらやましいと思わないだろうか。現代日本の俗っぽさやいやなところを描きだしてみて、自分の好きなこと、やりたいことを考えてみるのはどうだろうか。
『武器よさらば』 ヘミングウェイ 新潮文庫
ヘミングウェイは『老人と海』が定番である。でもこんな年寄りくさい物語を十代でわかるわけがない。釣れた魚を失うというのは人生のことをいっているのかもしれない。いままでほしくて得たもので、失ったり、なくしたものから人生の感じ方はそのようなものかもしれないと考えてみるのがヘミングウェイ流なのかもしれない。『武器よさらば』のほうが若者の恋愛と戦争話だが、テーマは『老人と海』に近い。こっちのほうがいい。私はヘミングウェイの短い単純な文章について語りたい。
『ライ麦畑でつかまえて』 サリンジャー 白水Uブックス
『ライ麦畑』は親や大人の世界に反抗しているときにぜひ読んでほしい作品である。親や大人の世界のどんなところが嫌いなのか考えてみるのもいいと思う。なんで親や大人はムカつくのだろう。書くことは、意外に自分の思っていることをはっきりと意識させてくれるものである。
『砂の女』 安部公房 新潮文庫
安部公房はワケのわからない寓話を書く作家だが、これは好きなことをしたい男と家庭に閉じ込めようとする女の話だと私は思っている。生活のために妻と子のために働く人生は自分の目標か、それともいやなのか、考えてみるのも一考だろう。
『ノルウェイの森 上』 村上春樹 講談社文庫
村上春樹は若者の小説好きを増やした作家である。とくに初期の作品カッコよくてオススメ。『ノルウェイの森』については私ならワタナベトオルくんの孤独についてとっぷりと考察して、自分に与えた影響を考えたいと思う。でも作品のテーマは自殺する人が多いことから生と死だと思うんだが、なんで死んでいったのだろうと考えるくらいしか私にはできません。
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■宇宙創生のはちゃめちゃ物語。 2005/9/3
『レ・コスミコミケ』 イタロ・カルヴィーノ
ハヤカワepi文庫 1965 800e
宇宙創生を井戸端会議レベルで語ればおもしろいんじゃないかと書かれた作品だと思う。ビックパン以前や地球誕生以前に人間が存在したわけがないので、どのように語り手が存在したのか奇妙な話だが、もちろんたんじゅんに人間の想像力のはちゃめちゃさを楽しめばいいと思う。
宇宙や大昔の生物に興味がある人には楽しめる物語である。宇宙がただ一点に凝縮していたころの話やビックバン、アトムで遊ぶ話、星々のあいだで何億年もかかるプラカードの掲げ合いなど、理科系が好きな人のための物語である。ただし現代人の概念や言葉が頻出して支離滅裂である。もうすこしストーリがメルヘンっぽかったら、アニメにもなれたんだけどなと思う。
私が気に入った短編としては「恐龍族」で、生き残った恐龍が、新生物に恐龍は伝説として恐れられているけど恐龍とは信じてもらえない話が印象に残った。なにかを暗喩しているのか、そうではないのか。「水に生きる叔父」は陸をめざす魚が恋した彼女に水に帰られてしまうという話である。なにかカルヴィーノは理想の逆説を訴えたかったようである。
ありえない話を語るという点でこの作品は小説の自由奔放さをとりもどした作品だといえるだろう。宇宙創生をどのように語るのかと気になったのである。日常やリアリズムより、寓話によってよりテーマが明確になったり、おもしろくなったりすることもある。日常のうじうじ小説はもう飽きてきたのである。
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■村上春樹というアメリカ 2005/9/4
『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』 三浦雅士
新書館 2003 1800e
村上春樹はそれまでの日本文学の流れを変えてしまい、その後の若手作家の多くに影響をあたえた。小説の書き方や作家のライフスタイルといったものだ。芥川や太宰、三島、大江といった流れに村上を位置づけることができない。
若者の間では80年代は村上春樹で、90年代は柴田元幸だといわれている。なぜ翻訳家が若者のヒーローに祭り上げられたのだろうか、その理由を村上春樹を経由に探っているのがこの本だ。
私も村上春樹におおいに触発された者としては、謎に迫る前半はかなり楽しめた。ただ私は村上春樹の文学のルーツを探る読書をしたものだが、柴田元幸にいきつく前に社会科学系の読書にいってしまったから、柴田元幸の長大すぎるインタビューは不満であった。
ヴォネガットやブローティガンはもちろん、ヘミングウェイやスタインベック、世界文学、ピンチョンやバース、バーセルミなどにも村上春樹の影響を探った。でも村上春樹のカッコよさは村上春樹しかいないのだとあきらめるしかなかった。柴田元幸がせっせとアメリカのカッコよさを紹介しているあいだ、私はワケのわからない文学より意味のわかる社会科学の書物ばかり読むようになっていた。
村上春樹は小説をカッコいい、おしゃれなものにしたのである。柴田元幸はそのカッコよさの源泉を紹介する旅なのだと思う。村上春樹は作家のありようやふるまいも変えてしまった。孤独にマスメディアと関わらないさまがよけいに格好よかった。日本文学の文脈からはなれて、ひとりアメリカ文学に接続してしまったのである。その影響が柴田元幸をとおして、新しい若手作家につぎづきにつたわっているのである。
村上春樹は完全にアメリカの空気をもっている。羊三部作を読んでいると、アメリカン・コミックを読んでいるみたいな気がする。アメリカのポップ・カルチャーが圧倒的な影響を与えるようになったのは戦後まもなくのことからだと思う。それがなぜいまなのだろう? たぶんそれは高級な文学がまだフランスやヨーロッパの影響をひきずっていたからだろう。村上春樹の登場によって文学にもアメリカの格好よさがようやく浸透したということになるのだろう。
アメリカが格好いいのは単純に豊かで金持ちの国だからだと言い切っていいだろう。金持ち国家は歴史的にもずっと世界から憧れられてきたのだ。世界中が模倣したいと思うのは世の習いである。村上春樹はいちはやくそのアメリカの空気や雰囲気を自分の中にとりこんであらわれたのだ。そのアメリカの空気や格好よさの源泉を探ろうとする試みが、柴田元幸の翻訳にあらわれているのだと思う。ただし、さいきんの村上春樹はアメリカのカッコよさをどんどん落としてきていっているという気がするけど。
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■けっこうメルヘンの世界がいい。 2005/9/5
『どーなつ』 北野勇作
ハヤカワ文庫JA 2002 660e
この作品世界はまったくなんなのだろう? 電気熊や火星やアメフラシや異星人などが出てきて、メルヘンっぽくてSFっぽくて、ほんわかとした世界をかもしだしている。意味を理解しようとしたけど、どーでもよくなって、たんじゅんにこのメルヘンの世界を楽しむことにした。
私がまず気になったのはこの作家は村上春樹のメルヘンの世界をつくろうとしたのかということだ。それともSFからメルヘンに脱線しただけなのか。
この作家のほかの作品のタイトルは、『昔、火星のあった場所』や『かめくん』、『ザリガニマン』などメルヘンや怪獣もののふざけた言葉をつかっている。よくはわからないが、SF界だけの人のようである。純文学では評価されていないのだろうか。
こういう不可思議で奇妙な世界を描く作家が、純文学で評価されることがよくある。たとえば安部公房や村上春樹、川上弘美、イタロ・カルヴィーノ、ヴォネガットといった人たちだ。この作家はたんなるSF作家なのだろうか。その線引きの基準というのが私にはよくわからない。
まあ、とにかくこの作品世界の要素は気に入った。奇妙で、メルヘンっぽい世界は、没入するのがほんわかと楽しい。現実を忘れさせてくれる異次元の世界というのは、メルヘンっぽかったら、なおさらひたりたい。ついでに高尚なテーマが潜んでいたら、格好のメルヘン没入のいいわけになるが、けっこう大人のメルヘンっていいなあと思った私でした。てへ。
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■恋愛小説第一位というコピー 2005/9/7
『十八の夏』 光原百合
双葉文庫 2002 571e
「恋愛小説第一位」という帯だったから、買った。違った。これは、なんというジャンル、と思いながら、読んだ。著者はミステリーの作家、らしい。連城三紀彦に近いかな、と思った。主人公が男ばかりだから、著者は男か女か、最後まで、わからずじまいだった。ネットで探した。女性だ。
花にちなんだ4作品。いずれも、恋愛を軸にした作品だ。年上に焦がれる浪人生、妻に先立たれた男の再婚話、兄貴の片想い、塾講師と教え子、といったものだ。ミステリっぽいラストが、隠し味だ。
まあ、そこそこ、物語にひたれた。でも連城のような感動や衝撃は、ない。「恋愛小説第一位」なのだろうか。私は、あえていうなら、連城三紀彦『恋文』をあげる。
ハードボイルドな文体を、もちいてみた。ヘミングウェイの翻訳よりか、片岡義男の文体だ。片岡義男の角川棚は、ハードボイルドに消えた。
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■村上春樹を超えたポップ作家はいないものか 2005/9/9
『ポスト・ムラカミの日本文学』 中俣暁生
朝日出版社 2002 1200e
村上春樹は日本文学を変えた。重々しい日本文学から、ポップでカッコいいものに変えた。ただし、そのあとに村上春樹に匹敵する作家は出ていないように思う。
この本は村上春樹と村上龍以降の「ポストモダン文学」「渋谷系」「J文学」などの期待される作家をとりあげていて、なかなかよかった。私は90年代なかば以降より文学を読むのをやめて、社会科学系の本ばかり読んでいたから、その後の動向を知りたかったのである。
80年代前半は島田雅彦と高橋源一郎、90年代は保坂和志と阿部和重が重要だと著者はいう。95年以降の著者の期待する作家は、町田康、赤坂真理、堀江敏幸、星野智幸、吉田修一、阿部和重になるそうだ。いずれも60年代生まれだ。
文学は出版社の一連の売り出し群、という感じがする。たとえば河出書房の『文藝』から若い作家ばかりが売り出されたり、西武セゾングループから90年代の重要な作家が出てきたり、角川エンターティメント戦略に対抗した講談社から村上龍、村上春樹、高橋源一郎といった作家が輩出したように。露骨に若さだけで売っている出版社もあるが、そういう期待と成果はわからないでもないが、内実をともなっているか危うく感じる。
私が文学に期待するのはいまだに村上春樹を超えるポップ文学である。文学におもしろさや格好よさ、おしゃれさをもとめ、なおかつ評価されるもの。知性をいかにロックスターや俳優のような憧れに、中身を失わずにパッケージするかが、重要ではないかと思っている。文学もポップスターのような人気がないと、あいかわらず若者にそっぽを向かれたままなのである。
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■商品交換の世の中 2005/9/10
『オレ様化する子どもたち』 諏訪哲二
中公新書ラクレ 2005 740e
かなり問題に感じる本であった。教師にとって、八十年代なかばに理解できない他者としての生徒があらわれたそうだ。そのような変貌を著者は農業社会から産業社会、消費社会への変化にみる。
子どもたちはすでに消費主体として教師に「等価交換」をもとめるようになったという。中年の経験ある教師にたいして対等であろうとする、その自信と強さはいったいどこから来ているのであろうかと、著者は驚いている。
教師は権威が否定され、いうならばコンビニの店員やどこかの営業社員のようにみなされるようになったのだろう。80年代に学校にいっていた私としてはこの気持ちがよくわかる。サービスを買ってもらっているお客なのにどうして偉そうにされなければならないのか、そういう反抗の論理をひねりだしたものである。
この社会は経済の利害だけでものを考える社会になっている。商品交換の発想が人の関係にまでおきかえられる。公共性がたちあがるまえに、バラバラのむきだしの経済主体としての「個」が登場してきたのである。
80年代の校内暴力は成績の悪い生徒たちの扱いに対する教師へのお返しであったというのはなるほどだと思った。ただし、そのころの中学生はなにごとかをいったのだが、それをうまく言葉にできなかった。教師の権威が消失し、等価交換がもとめられる時代のはじまりを告げていたのである。
そして新しい子どもたちは全能感をもったまま、社会化されず、「オレ様」化されている。自分は自分にとって「特別」であるが、他人にとってはそうでないということを理解しない。主観を叩かれた経験がない。外からの評価を異常なほどに恐れている。
著者は学校という現場から生徒のこのような変化を報告するのだが、私も生徒側としての気もちがよくわかったし、その変化の意味にかなり問題を感じた。消費社会においてつくられたであろう全能感や評価を恐れる気もちを私もかなりもっている。これは子どもの変化というより社会の変化である。私も職業への侮蔑感に現実に着地できない全能感の不満を感じてきたものである。
生徒に等価交換がもとめられる学校は共同体のルールを教え込むことができるのだろうか。あるいは徹底的に顧客の主体性にまかせたら小学校はどうなるのだろう。経済利害だけの世の中で共同体というものはどうなってゆくのだろう。いろいろな問題を感じた著作である。ただ家庭でのオレ様化が問題になっていないなあ。
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■なぜ日本の世間は反知性主義なのか 2005/9/11
『グロテスクな教養』 高田里惠子
ちくま新書 2005 740e
第一章はかなりつまらなくて、二章三章とおもしろくなってくるのだが、いつのまにか尻すぼみで終わってしまうような著作であった。たくさんの資料ばかり寄せ集めてきて、てんで結論めいたことも、なぜなのかも説明しないからだろう。
おもしろいテーマにもっと絞込み、余計な資料を排して、なぜなのか整理してくれればもっとおもしろくなったのにと思う。
私がいちばん知りたかったのは、なぜ日本の世間は「反教養主義」「反知性主義」なのかということだ。会社のなかで学校出の教養なぞ振りまわしていたら、かえって人間関係がうまくいかなくなり、世渡りにはマイナスになるのである。なぜなのかをもっと提示してほしかった。
この会社の中の教養禁止の雰囲気はサラリーマンの業務に対する自己評価の低さにあるのではないかと思う。知性はつりあわないのである。会社では仲良しごっこのほうが重要で、知性はその障壁になるのである。日本的謙遜の土壌が悪いふうに作用しているように思える。私はだから知識を自分だけの楽しみにしまいこむことにしたが。
日本では秀才と優等生は侮蔑語である。だから高学歴者は文学書や哲学書を読むことで、ガリ勉の非難を排することが、日本の教養主義の発生源だったということである。
第四章の「女、教養と階層が交わる場所」も、教養と知性が異性探しのどのような武器になったり、戦略になったか、もっと皮肉っぽく見せてくれたらおもしろかったのにと思う。
なお、失礼なことだが、著者の顔写真はまるで教育ママのような冷たい知性を感じさせ、私のおかんだったら私は思わずタタカッテいただろう(笑)。
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■無職をめぐる短編集 2005/9/14
『プラナリア』 山本文緒
文春文庫 2000 457e
女性の無職をめぐる短編集。『プラナリア』では乳がんになった陰湿な女性が出てきて、まるで山本文緒自身がこんな性格なのかと思ってしまった。暗さが尾を引いた。読者の中には自分だけではないと安心する人もいるみたいだから、なんらかの役に立つ作品なのだろう。
離婚して慰謝料で暮らす女性や、リストラされた夫のためにパートに出る女性、稼ぎのない大学院生に結婚をせまられる女性、居酒屋の店主にひろわれる住所不定の女性などが出てくる。
まあ、それぞれの無職や職にまつわる話が出てくる本である。なにか職や無職にたいして開眼するという小説ではないけれど、職にまつわる話が読めるという本である。パート女性の話だけがふつうの家庭をあらわしていて、なんとなくほっとする作品であった。
直木賞受賞作品だということだが、選考基準が私にはまったくわからない。山本文緒って性格の悪い女性を描いて女性の共感を得るところがあるのだろうか。私にはただ読んだという読後感しかのこらなかった。そろそろ小説を読むのをやめようかな。
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■だめ男の新しい文体 2005/9/17
『きれぎれ』 町田康
文春文庫 2000 429e
文体が新しい。変わった日本語の感覚を楽しめる。新しい作家は新しい文体をひきつれてこないとな。
主人公のひとり言がえんえんとつづくのだが、自虐的で、逆恨み的で、破滅的な語りや行為がくりひろげられ、文章がかなり愉快である。新しい。笑えるか、情けないかのぎりぎりのところである。情けなさを笑えるか、嫌悪してしまうかのどちらかだな。文章がつまっていて、ちょっと読みつづけるのはしんどいと思うけど。
私は労働が嫌いで、なかなかまともに仕事にありつけない主人公は好きだな。破滅派みたいなのだ。いうなればニートやフリーターみたいな存在で、だめ男や仕事のできない情けない男なのである。妻がいるのに仕事をしない男の系譜だな。酔いどれ作家のブコウスキーや無頼派の太宰治、またはパンク作家のバロウズなどの系列に位置することができるかもしれない。
ネットではわからないという声をいくつか見たが、これはたんにだめ男の共感を楽しんだらいい作家ではないのかと思う。自虐的で、破滅的な主人公の諧謔を楽しめばいいのだ。芥川賞をとったということだが、日本文学ってけっこうだめ男が好きな系譜があるからなぁ。文体が愉快で、新しいのがいい。
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■トラックに乗るだけの話。 2005/9/17
『ヴァイブレータ』 赤坂真理
講談社文庫 1999 381e
これはどうにもわからない。31才の女性ライターがナンパしてトラックに乗る話にしか思えない。
アルコールや吐くこと、他人の言葉が頭の中に聞こえる、消費社会の愚かさ、または皮膚感覚に生きていることなど、女性の共感を得ることがあるかもしれないが、これは私にはまったく通過駅であった。とまってじっくり探索したいような駅ではなかった。
「シブヤ系」とか「Jブンガク」などの期待される作家らしいが、装丁だけで釣っているのではないかと斜め読みしたくもなる。映画化もされたらしいが、私の急行列車はとまりませーん。
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■なにもおこらない話 2005/9/19
『パーク・ライフ』 吉田修一
文春文庫 2002 390e
『パーク・ライフ』はなにもおこらない公園の話。でもなんとなく愛着をいだける作品でもあった。電車でまちがって話しかけた女性と、公園で出会う話が軸になっている。
主人公は別居中の夫妻の家に猿の世話のために住み、自分の家には母が泊まっている、そういう状態が都会の生活でのなにごとかを象徴している作品のように思える。借り物と自分のもの。
『flowers』の主人公はトラック配送の助手をしており、私にもかかわりのある仕事なのでなんとなく親近感をいだいた。ドラマでやっていた『東京湾景』もフォークリフトに乗る男の話しが出てきて、吉田修一はけっこう私と近い仕事をしてきたのかもと思った。なにか私はモノをつくる仕事より、モノを左から右に流すなにものこさない仕事にかかわることが好きである。
『東京湾景』は親のひきさかれた恋が、子の代にも職業や国籍というカベに阻まれて祟る?話であったが、バカかと思った。宿命的な恋なんて恥ずかしシー。
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■なんか、まずい読書論 2005/9/19
『悪の読書術』 福田和也
講談社現代新書
女性に階級的に恥ずかしくない本を読めとすすめた本。
文章が間延びしていて、ぜんぜん内容が凝縮されていなくて、ヘミングウェイの記者修行みたいに文章をもっと刈れといいたくなった。
中身もアッパーな本をすすめているくせに、あまりアッパーな感じがしない作家や話題が頻出している気がした。私が高級な本を思い浮かべるなら、やはり思想書や哲学書、科学書、古典になるのだけど、そういう話は少ない。小説ではない。小説なら古典や世界文学だけど。なんか、まずい読書論である。たしかに読書論はむずかしいと思うけど。
読書論なら、小野谷敦『バカのための読書術』のほうがわくわくしたし、中島梓『ベストセラーの構造』も古いけどなかなかよかったのではないかと思う。
私が本をすすめるとしたら、知的虚栄心を飾るのも志が高くなっていいと思うけど、やっぱり興味のある本を読めということである。それ以外読めないし、読んでも価値がない。平行して、書くこともおすすめ。はじめて自分の考えていたことに気づくことができるし、また思索や興味は、そこから深めることができるからである。なにより知識に価値や重要性を認めないとはじまらないし、知識のステータスを信じることが必要なのだろう。
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■階層化を騒ぐ前に価値観の順位を問え 2005/9/22
『下流社会 新たな階層集団の出現』 三浦展
光文社新書 2005 780e
おお、そうか。中流社会ではなくて、「下流社会」の時代がやってくるのか。結婚して、子供を生んで、ふつうに暮らす、「中流」の世界がどんどん難しくなってゆくのである。
すでに団塊ジュニアの下流意識は5割に近くなっている。所得格差の拡大も8割程度の団塊ジュニアは感じとっている。かれらは少年期に親の豊かな消費生活を味わってきたから、社会に出ることは自由に使えるお金と時間の減少にしか感じられないのである。未来の社会はすでにこの世代からはじまっているのである。
この本はそのような下流社会の実態を膨大なデータで示した本なのであるが、多すぎるデータはちょっと、う〜ざ〜い〜。ただ、やがてくるであろう下流社会の実態を垣間見せてくれるという点で、先見的な本になることだろう。
働く意欲もなく、結婚もできなく、生活能力も低い下流層が膨大なボリューム・パワーとなるのである。陰鬱な未来のヴィジョンであるが、豊かになればとうぜん上昇意欲をなくす者も増えるし、生産マシーン国家としてつっ走ってきた大きなツケは未来の世代にあらわれることになったのである。
この本のデータでほかにおもしろかったのは、男性の所得と結婚率の関係である。所得が高ければ高いほど結婚しており、低ければ低いほど結婚していない。つまりお金があれば結婚でき、なければ結婚できない。年収500万以上なら8割は結婚しており、300万なら7割は結婚していない。500万が結婚の壁である。結婚とは愛ではなくて、金のことだったのである。
むかしは夫の稼ぎが低ければ妻が働きに出ていたが、いまは夫も妻も高所得というカップルが増えているそうだ。「自分らしさ」を求めれば団塊ジュニアでは下流になってしまうそうである。団塊ジュニアの上流意識をもつものは旅行やレジャーを好み、下流意識のものほどひきこもるらしい。
階層の格差がひろがる社会は恐ろしいとされるが、それにしても、階層とはいったいなんなのだろう。そんなモノサシは有効なのだろうか。あいかわらず金でしかものを測れず、オールド・メディアの新聞みたいにそのモノサシをふりかざすのだろうか。階層化を騒ぐ前にそのモノサシ自体を再点検する時代にきているのである。価値観の順位を考えなおすべきなのである。
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■親の理想と現実の自分との落胆。 2005/9/23
『誇大自己症候群』 岡田尊司
ちくま新書 2005 740e
私自身もなかなかおちつけない職業選択のなかに誇大自己ではないかという思いをもったものである。働くということを軽蔑したり、自分のついた職業・職場にいつもしっくりとこない違和感を感じてきた。なにか自分が特別な職業につかなければならないという感じがしていたものである。
この本はそのような現代に増えた誇大自己いうものをとりあげた本で、期待したのだが、犯罪というアプローチからそれを捉えたのはあまりにも俗っぽいニュース解釈にしかすきず、不満であった。フリーターやニートという存在に誇大自己をみるのはたやすいと思うし、もっと日常なものにそのあらわれをみるべきだと思うのである。犯罪という異常な領域からそれをみるのは、もういいやという気がする。
誇大自己のいろいろな解釈があったが、私自身がいちばん腑に落ちたのは、親の期待と理想を押しつけられる子どもと、現実の落差が、全能感を長引かせるということである。自分は特別な存在でなければならない、あっと驚く大きなことをしなければ価値がない。子どもは親の失望と、自分自身への失望を二重に味わうのである。
特別な存在でなければならないことと、自分がそうでないことのやましさ。自分の望みもしないことをいつのまにかやらされて、失敗させられたという被害者意識と、そのことに対して仕返ししてやりたいという復讐心に発展してゆく。私自身も青年期に母親に思い切り反抗したことがあるし、家庭内暴力やニート、ひきこもりのなかにはそのような自分への落胆と復讐心があるのではないかと思った。
親の期待のなかに全能感は強迫観念となり、現実とのギャップに齟齬をきたすようになる。現実のことをやろうとしたり、努力や試みをすれば、自分の無能力や自信のなさが露呈してしまう。ニートやひきこもりのなかにはそうした全能感を必死に守ろうとする抵抗があるのではないかと思う。
誇大自己のトゲを抜くのはかなりむずかしいように感じられる。現実に着地することは自分に価値のないように思われてしまうのである。かなり自我の根本的なところをつかんでいる気がする。
理想化を捨てて、ありままの自分でいられること。これは数多くのセラピーがめざしてきたことでもある。ありのままの自分とはなにかというとひじょうにわかりにくいことだが、私自身は思考や自我を捨てるという方法にいちばん恩恵を受けてきたように思う。誇大自己というのは思考のパターンやその固形化であると思う。これを消すことが、ありのままの自分の肯定につながった。というか理想化の強迫観念を削ぎ落としたのだと思う。
宗教的なイメージから抵抗のある人がいるだろうと思われるが、私はリチャード・カールソンやトランスパーソナル心理学、大乗仏教のなかに、優れた思考を消し去る方法や自我の葬り方を学んだ。誇大自己や全能感というのは思考であると思う。無思考をすすめた古来からの仏教は、意外なことに、現代の誇大自己に効くというのは皮肉なことである。
▼誇大自我の消去に参考になる本
『グルジェフとクリシュナムルティ』 ハリー・ベンジャミン
自我というのは頭の中で自己の価値観を維持・保守する機能のことである。人からないがしろにされたり、軽く扱われたりしたら、たえず自己の価値観の賞賛と称揚を頭の中でおこなう。そのような自我の情けなさを知るには驚きのおすすめ本です。
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■片手落ちの本である。 2005/9/24
『働こうとしない人たち - 拒絶性と自己愛性』 矢幡洋
中公新書ラクレ 2005 740e
「働こうとしない人たち」という大きなタイトルのわりに、多くの働かない人たちの理由をカバーしたわけではない本である。おもに拒絶性スタイルと自己愛性スタイルの人たちをとりあげただけで、かなり片手落ちの本だ。
拒絶性スタイルというのは人から命令されたり指示されたりするのは主体性の侵害に感じられ、仕事をのろのろやることによって消極的な抵抗をおこなうタイプである。こういう人たちが働かない若者の多くを占めているのか疑問だが、かなりのページをこの人たちに割いているのは不満である。
この拒絶性は依存性パーソナリティーのなかにふくまれ、「自分自身の考え」を大切にするより、グループに合わせることが死活問題である人たちであり、こういう若者がふえているから自分自身で決めなければならない就職問題でつまづくことが多くなっているといっているが、う〜ん、私にはこういう人たちのほうがみんなに合わせて社会に同調しやすいと思うのだけど。
自己愛性スタイルは自分は特別な存在であるから、目の前にある仕事を自分にはふさわしくないと思ってしまう若者で、どちからというとこういう若者のほうが多いような気がするのだが、本書ではあまりページを割かれているわけではない。
働かない人たちがふえたのはやはり社会の価値観が生産より消費に価値がおかれた時代になったからなのだと思う。消費や知識に価値をおかれたメッセージや教育を受け、その勝者をめざしてきた若者が、いきなり丁稚奉公のような転落の労働に価値をみいだせるわけがない。価値観の問題であり、ルーティン・ワークや肉体労働、頭を使わないことに価値をおかない社会のせいでもある。
働かない理由を心理学的要因にもとめるのは少なからずは参考になるかもしれないが、やはり大きく説明できるわけではないと思う。
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■戦後の理想の終焉 2005/9/25
『子どもがニートになったなら』 玄田有史 小杉礼子
NHK出版 生活人新書 2005 680e
ニートという存在にはこれからの社会の変化や転換の意味がすべて凝縮されているのだと思う。豊かさや安定、正社員といったこれまでの目標が、ぜんぶ終わってしまったのだということを報せているのではないかと思う。これまでの価値観や時代は転換を余儀なくされているのである。
戦後の希望や理想は終わってしまったのである。そして子どもたちは親の生き方を認めていない。あんな人生を送りたくないと思っている。親は人生を否定されたうえに、パラサイトされ、ニート化され、食い物にされているだけである。ある意味、この世代は国や社会、会社や女にこのように利用されてきたことを象徴しているのではないかと思う。
ニートの世代は親に過剰な期待や理想を押しつけられた世代である。未来の希望や理想を膨大にしょいこまされた世代である。だから職業や親の人生を軽蔑したり、つまらない仕事には満足できない。過剰な期待や理想がぽっきり折れてしまい、終わってしまった世代なのである。
長須正明という大学講師は、人生を早々とあきらめろといっているのは、この世代につけるいいクスリになると思った。思い通りの人生なんか送れるわけがない、とはじめから悟っておくぺきなのである。過剰な期待を背負わされたこの世代には、ほんとうに必要な言葉なんだと思う。
ついでにこの人は家族のために、子どものために働くのはやめたそうだ。働いていも軽蔑され、食い物にされる親世代にはそのくらいの潔さが必要なんだろう。なぜこの世代はバカにされても家庭と子どものために働いてきたのだろう。この価値観の否定がニート世代にあるわけである。ただ新人類世代になるともう自己中だからパラサイトの子どもを放っぽりだす可能性があるが。
ニートは親社会の否定であり、軽蔑である。このことを社会はしっかりとわきまえて、価値観や社会の転換をめざすべきなのである。変わらなければならないのは社会と親のほうである。自分たちの価値観の時代は終わってしまったのだと知るべきなのである。
ニートになってしまった人は、自分の情けなさやカッコ悪さを受け入れるしか、働く術はないのではないかと思う。それを否定すると、なんの仕事にもつけなくなってしまう。どんな仕事でもいい、メシさえ食えればいいと思えるようになれば、けっこう仕事は広がっているのかもしれない。貨幣経済の世の中だから、そうするしかないのである。あきらめが人生を開くことを知るのも大切であると思った。
▼70年代のモラトリアムからニートへの系譜
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■ヒトは子作りのために浮気はしない。 2005/9/27
『ヒトはなぜするのか』 ナイルズ・エルドリッチ
講談社インターナショナル 2004 1600e
「人間は遺伝子をばらまくために浮気する」と生物学でいわれたりするが、そんなわけがないだろう。子どもを生むためにセックスするなんてことも、実感としてはまずない。
竹内久美子の本やドーキンス、社会生物学ではそういうことをいっている。私も竹内久美子の本を何冊か読んで、おもしろいから、繁殖戦略から人間社会や行動が読み解けるものなのかなあと感心したが、やっぱり実感とかけ離れているから、反対意見を聞きたかった。それがこの本である。
進化論の論争というのはときに、なにがなんだかわからなくなる。意見がどう違うのかも混乱する。それでも人間は遺伝子のためだけにセックスするのではないといってくれたこの本は、頼もしいかぎりである。また進化論や生物としての人間のあり方が熟考されたこの本は、さまざまなことを考えさせられる。
人間は繁殖活動のために生きるというよりか、経済的活動のために生きる、進化を推し進めるのは遺伝子ではなくて、環境である、性は快楽のために追求され、自尊心とも深く結びついている、美しくセクシーな人は、平凡な人より多く子どもを残すのか、ダーウィン流なら金持ちは多くの子どもを残すはずだが、じっさいは貧乏人のほうが子だくさんである、等々。
ヒトがするのは快楽のためである。そしてセックスは育児を助けたり、共同生活を営むためのご褒美みたいなものである。人間の性はセックスと生殖が切り離されている。繁殖戦略だけから人間を読み解くには、人間はあまりにも文化に拘束されている。人間は繁殖のためだけにセックスするとはとうてい思えない。
著者もいっているとおり、生物学者の発言は社会原則の支えとなってきた。ときには人間界の規律やルールとなったりしてきた。それは人間の自由や生命の本質にかかわることがらであり、われわれはかんたんに生物学者の発言をうのみにするべきではないのである。
なんか悪人の言い訳ばかりに使われてきたように思える。浮気の正当化、人種差別の合法化、資本主義の強欲さの正当化。。 ろくなものじゃねぇ。生物学者って悪人の提灯持ちなのか。
▼竹内久美子の本。
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