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■050608書評集
■学問の中立・客観を信じるな。 2005/6/8
『オリエンタリズム(上下)』 エドワード.W.サイード
平凡社ライブラリー 1978 各1553e
読みとおすのがひたすらしんどかった。上下巻で800ページを越すこの本を読むには東洋学の知識がかなりないと読み込めたものではない。興味を持続するのもむずかしく、いくつかのフレーズに感銘した程度しか読めなかった。ぶあつい本のめくり具合の感触だけを楽しめた。
この本は何をいっているかというと、私が理解するに、西洋が東洋(とくにイスラム)を見下した見方を、中立・客観と思われている学問が「保証」したり、「権威」づける様を暴いているということになるのだろうか。学問は差別をやめさせようとするばかりか、「客観的科学」の名のもとそれを助長するのである。学問の中立や客観を信じるなということである。
蔑視や差別が科学的に保証されるようになると、西洋人によるオリエント征服が征服ではなく解放であるとする論理になんの矛盾も抱かなくなる。後進的、退行的、停滞的な東洋人はすぐれた西洋人によって解決される問題として占領されなければならないのである。
東洋人はわれわれ西洋人と同じ人間なのか、名前があるのか、虫けらと変わりはないのではないか、墓の存在すらだれも気にかけない――そのような西洋人の蔑視を学問は正当化するのである。
この本は中立・客観的である学問がどれほどまでに偏見や差別に満ちた見方を助長したり、正当化するのかといったことをわれわれの目の前にくりひろげ、オリエンタリズムのみならず、学問や知識のありかた自体を深く懐疑させる問題提起として評判になったのだと思う。
しかし東洋学をかなり読み込むか、イスラムに深く興味をもつ人でないと、なかなか有益に読みこなせない本であると思う。ぶじ読み終えてうれしかった。つぎの読みたい本を早く読めるからだ。
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■敵国とは私自身のことである。 2005/6/13
『容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別』 ジョン・W・ダワー
平凡社ライブラリー 1986 1600e
ひどい話である。太平洋戦争中にどんな残酷な殺戮がおこなわれたか、アメリカ人、日本人はそれぞれ敵をどのように罵り、侮蔑し、イメージしたかということを克明につづった本である。アメリカ人は日本人を猿よばわりし、日本人はアメリカ人を鬼としてイメージした。
読んでいるとちゅう、なぜこんなヒドイ話をえんえんと描きつづけているのかなと思ったけど、ふと思い出したら、この本が出された80年代は日米の貿易摩擦がかなり感情的になっていたころで、だからもっと感情的になった戦時中の悪い見本を見せるためにこの本が書かれたということに思い当たった。これ以上感情的になったら「リメンバー太平洋戦争」になりますよということだ。
戦時中アメリカ人の描いた敵国日本人は、ジャングルを飛び移る猿であり、ヤシの木にしっぽからぶら下がりナイフで白人を狙う猿であり、そして本土空襲のときにはクモやゴキブリなどの「害虫駆除」が必要な「人間でないもの」であった。日本人が描いた敵国はローズベルトやチャーチルの顔をした角をもつ鬼であった。
これはほとんど子どものけんかのレベルだと思った。子どものときといったら人を嘲るときはサルやブタをもちだしたし、仲間はずれをするときにはゴキブリやらばい菌などといったものである。戦争中には大のオトナたちが大真面目に敵国を子どものように獣よばわりしていたわけだ。
そして当たり前のように「自分たちが正しくて、相手が悪い!」である。いまでもアメリカとイラクが双方そのようにいっているし、おそらく戦争になったときにはだれもがそういいだすことだろう。こんなレベルがげんざいの人間の限界なのだろうか。
この本でとりあげられている敵国は日本とアメリカだけど、そのイメージはどんな敵国にも応用され、適用されるということを知ることは重要である。そういうカテゴリー分けでわれわれは他者を見下し、憎悪を駆り立て、容赦なきものになってゆくのである。
この本でいっているのは、憎悪に駆り立てられるあなたはまさしく敵国のイメージそのものですよ、あなた自身なのですよ、ということなのだろう。それはあなたが自身の「鏡」を見ているのですよということなのだろう。自身の醜さを知るために、この戦争中の敵国イメージは、胸が悪くなっても読まれなければならないのだろう。
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■優越意識の暴力の見本。 2005/5/18
『帝国意識の解剖学』 北川勝彦 平田雅博編
世界思想社 1999 2600e
私が読みたかったのはこの本だと思った。いま私が知りたいのは、みずからを優越したと思い込んだ者がどのように他者を蔑視や劣等視し、暴虐を正当化するのかということだ。つまり優越者の思い上がりがなにをもたらすかということだ。
そういう問いには、この「帝国意識」がぴったりだ。「帝国意識」とは支配国に属しているという自負心と、他民族への侮蔑感と自民族の優越感であり、その支配を正当化する意識のことである。
この本ではイギリス、フランス、ドイツ、近代日本の帝国意識が分析されている。これらの帝国はみな先住民のいる土地を植民地化し、未開や停滞の遅れた民族として科学的に差別し、優れた民族には文明化の使命があると信じ込み、支配や侵略、虐殺を正当化してきたのである。
ここには自分たちの民族や国家が優れていると思い込んだ先進文明国の思い上がりや放漫さがどのような結果や歴史をもたらしたのか、如実にあらわれている。優越者は劣等者を自分たちの権利や使命として踏みにじってきたのである。
近代ヨーロッパや近代日本の歴史とはこの植民地主義の歴史にほかならない。先進国や文明国として優れていると思い込んだ人間たちの暴虐の歴史だったのである。
われわれはここに優越意識の恐ろしさを見なければならない。そして科学的知識というものがいかにその意識を増長させてきたかしっかりと記憶しなければならない。そしてこの優越意識はまだまだ終わっていないこと、いや、これからもずっとつづいてゆくであろうことを世界じゅうでも身近な人たちの間でもたくさん見ることだろう。
人は自分が優れていることを追い求めつづけるだろうが、その意識には近代のこのような歴史があったことを頭の隅にでもおいておくべきである。国家に現れたことは、集団でも個人でも現れるものである。けっして国家レベルだけの問題と読むべきではないのである。
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■科学という政治的道具 2005/6/20
『人種差別』 フランソワ・ド・フォン・フォンテット
白水社 文庫クセジュ 1985 951e
さいきんは人種差別なる問題をあまり耳にすることはなくなり、本を探すのもむずかしくなった。ただ現在その問題がまったくなくなったかというと、まったくそうでないと思うし、人間はそのような歴史をもってきたのである。
人をおとしめ、さらにそれは科学的根拠をともなって正当化された歴史があるのである。科学のこのような面はこんにちにも存在すると見なすほうが妥当である。
この本ではゴビノーやチェンバレン、ラプージュといった科学で人種差別を正当化した学者たちに触れられており、まあ参考になった。
科学は「高級な偏見にすぎない」とだれかがいっていたが、ほんと、科学というのは客観や中立的知識といったものからほど遠く、おそらく偏見や侮蔑、思いこみが科学的言説をまとわされているだけなのかもしれない。
科学は権威をまとうための政治的道具にすぎないといったほうがいいのだろう。真理という名の知の服従装置というしかない。
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『SAND CASTLE』 浜田省吾
こんなにハマったバラードのアルバムはこのハマショーのアルバムをほかをおいてない。ともかくどろどろにとろけさせるラブ・ソングのアルバムである。
十代のころ、真夜中、友だちの車で夜遊びしていたとき、このアルバムがかかっていて、よくみんなで熱唱したものである。たちまちハマショーのとりこになった。
ハマショーのラブソングがほかとの歌手と違うのは、物語性があることだと思う。どこでだれと出逢って、どのような愛し方をして、どのような別れ方をしたか、ドラマのシーンを見ているように具体的にイメージさせるのである。この物語性がたまらなくいい。
このアルバムはハマショーのラブ・バラードからピックアップしたものだが、まるでクラシックの雄大な曲を聴いているように全体の曲が一曲のようにつながっている感じがする。私はよく『白鳥の湖』をイメージしたものである。それほどまでにこのアルバムはどろどろの曲調のトーンに全体が貫かれているのである。
まず一曲目の『君に会うまでは』がいい。
腕組み歩くよ 夜の町 二人
踊り疲れて 少しだけ お酒も飲んで
最終電車に 遅れないように
いつもはもう駅への道を歩いている頃なのに
今夜は そっと時計を君はバッグにしまい
僕も気付かない振りで どこまでも 歩くよ
やっぱりこアルバムのよさはこの一曲目のよさにあるのだと思う。
『愛という名のもとに』が最高にいい。というか別れの唄なのだけど、この曲の美しさは私の中では格別だ。真夜中のドライブでみんなで熱唱したのもこのフレーズだ。
眠れぬ夜は電話しておくれ
ひとりで 朝を待たずに
真夜中のドライブ・イン 昔のように
急いで 迎えに行くよ
『散歩道』のんびりした感じか好きだ。『片想い』はまあ大そうな気もしないわけではないが、十代ならそういう繊細さもよく理解できるだろう。さいごの『愛しい人へ』の詩が沁みる。
愛はいつも 失うだけの
寂しがりやのゲームだと
僕は君を 愛するまでは
そう信じていた ひとりぼっちで
2005/6/23
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■植民地の歴史から近代が見える 2005/6/24
『表象の植民地帝国―近代フランスと人文諸科学』 竹沢尚一郎
世界思想社 2001 3600e
植民地の歴史には人間の優越感がもたらす過ちが物見事にあらわれている。
近代西洋は自分たちが「先進文明」や「優越人種」と思い込んだばかりに、世界中の人類を「未開民族」や「劣等人種」と決めつけ、支配や侵略、ときには虐殺や奴隷化までおこなわれてきた。
植民地の歴史には西洋の尊大な優越感がもたらした惨劇が山のようにうずもれている。この本はそのような近代西洋の他者像や優越意識の変遷がつづられていて、近代西洋の思い上がりや愚行の数々を見ることができる優れた本であるといいたい。
人文諸科学は非西洋を中立的に記述するのではなく、「文明の序列」や「人類の発展」という物質的物差しでかれらを最低劣にランクづける正当化をおこなってきたのである。人類学や社会進化論は世界の他民族をおとしめ、西洋を最上位におくイデオロギーの役割をはたしてきたのである。
人文諸科学なんて西洋を思い上がらせるためのイデオロギーでしかなかった。われわれはここに学問のゆがみや限界を見ることができるだろう。
優秀さを誇りに思ったり、自尊心をもつ程度なら許せるかもしれないが、現地の人の土地を奪い、支配し、虐殺や奴隷化が正当化されてきたのなら、これは学問というよりか、たんなる政治プロパガンダや蛮行の正当化にほかならないではないか。
学問は自集団の偏見や思い込みを訂正や反省を迫るよりか、その強化や拡大化を促進してきたのである。学問も「自文化中心主義」からは抜け出せないのである。公正中立である学問にはそういう立場から超越し、相対化する視点を期待したいものである。
自分たちの価値観や物差しで序列づける人間の意識や判断には強力な警戒心が必要だと思う。無自覚にもってしまう自分たちの社会の価値序列というものに学者は最低限、超越してなければならないと思う。でなければ科学の名前に値しない。
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■お手上げ本 2005/6/27
『闇の奥』 コンラッド
岩波文庫 1899 400e
これはまったくお手上げの本だった。さっぱり意味がわからない。物語の筋さえまともに追えなかった。
植民地主義の何たるかがわかると思ったのだが、断片的なそのフレーズは見かけることは見かけるのだが、それが物語とどうつながってくるのかもわからなかった。
思想家のアレントが評価し、『地獄の黙示録』という映画にもなった作品なのだけど、映画同様わけのわからない作品だった。映画ではベトナムで大音量の音楽を鳴らしながら出撃する白人の放漫さや、マーロン・ブランドの異様な役柄を覚えているけど、それに込められている意味が、たとえほかの解説を読もうと、この作品からは読みとれなかった。まあ、私にとっては意味のなさない本である。
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■文明が野生を生んだ。 2005/6/28
『「野生」の誕生―未開イメージの歴史』 スチュアート・ヘンリ編
世界思想社 2003 2300e
野蛮で劣った未開民族というイメージから、文明を見なければならない。つまりそういう劣った存在があるからこそ、「文明」は生成するのであると。
文明が優れた存在であるために、「野生」はつくられなければならなかったのである。未開民族というのはヨーロッパ自身が抑圧しなければならなかった生活様式やルールの「隠された自己」のことである。それらは精神病者や黒人、下層階級、貧者、女などとともに虐げられなければならなかったのである、「文明」が正当化されるために。
そうして近代ヨーロッパは世界中を侵略や支配し、ときには虐殺というとてつもない歴史をくりひろげてきたのである。劣った未開民族/優れた西洋文明国という対比において、それらはすべて義務や使命という正当化を帯びたのである。
未開民族というのは文明人が削ぎ落とさなければならなかった文明人自身の姿なのである。そしていまでも内部から責め立てられている規範である。
この本を読んで、野生や未開は文明とセットで結びつけなければならないものだと知った。文明はそれなしでは成り立たないのである。未開や野生について問われているのは文明自身であることに注意深くありたいと思った。
この本ではもうすこし未開イメージの歴史を知りたかったのだが、それは少なくて残念だった。ただ未開に逆照射される文明についての文章には感銘した。
ひとつつけ加えておきたいことは、現代の狩猟採集民族はヨーロッパの植民地侵略から逃れるための新しい生活様式だったという説には度肝を抜かれた。太古から存在した遅れた生活様式ではなかったかもしれないのである。
近代ヨーロッパというのはとんでもない文明国である。外部に内部にくりひろげてきたことを見れば、自身が未開民族に見た野蛮や凶暴、野獣のなにものでもない。そしてそれは現在でもつづいているのはまちがいない。
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『透明な音楽』 S.E.N.S
S.E.N.SはTVドラマのテーマ曲やCM、ドキュメンタリーなどに使われることの多いヒーリング音楽の大家である。ドラマなんかが好きな人だったら一度は聴いたことがある曲があると思う。
このベストアルバムは私のお気に入りである。飽きない。読書のじゃまにもならない。感動的で気もちを落ち着かせてくれる。清涼な気持ちになる。一言でいったら「陰鬱なアルバム」といったほうがいいと思うのだが、私は陰鬱な曲のほうが気もちが浄化される気がして大好きなのである。
インストゥルメンタルの曲というのは入り口がむずかしいから、ドラマなど聞き覚えのあるセンスが入りやすい。しかもこのアルバムには数多くのドラマのテーマ曲や挿入曲がある。『あすなろ白書』、『出逢った頃の君でいて』、『輝く季節の中で』、『青い鳥』、『ミセス・シンデレラ』などで使われた曲がてんこもりである。そしてこのアルバムは2001年
日本ゴールドディスク大賞インストゥルメンタル・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞している。
私はこの中では『あすなろ白書』で使われた『風のように』がいちばん好きである。石田ひかりが「掛居く〜ん」と泣くシーンを思い出す。寂しさが煽られるような感動的なもりあがりがいい。このアルバムは中の一曲を好きになるというか、全体の流れの中で曲の美しさを味わえるので、あえて好きな曲を選ぶのはむずかしい。
センスはほかのインストゥルメンタル同様、アルバムを選ぶときがたいへんむずかしい。視聴でもしないとどのアルバムがいいのかさっぱりわからない。しかも33枚もアルバムを出しているのにショップでは揃っていないことが多く、コンプリートアルバムかオリジナル・アルバムを選べばいいのかもむずかしい。けっきょく私は『MOVEMENT』と『The
Key』を選んだだけだった。
のちにドラマで使われた『マリア』という曲が大好きだったのだが、この一曲を聴きたいがためにアルバムを買うのもな〜とためらわせた。私は神秘的で宇宙的な音楽が好きだから、センスも感動清涼系より、SF的なものをつくってくれたら凄みが増すんだけどな〜と思うが、まあそれは個人的な好みの話だ。もっとNHKドキュメンタリー的な曲をつくってほしいセンスである。 2005/7/2
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