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 ■050402書評集 歴史はイデオロギーか


 ■歴史という一方的なまなざし         2005/4/2

 『「歴史」はいかに語られるか――1930年代「国民の物語」批判』 成田龍一
 NHKブックス 2001 1020e

 


 たいへんに難しい本であった。繊細すぎるというか、些細すぎることがメインに語られていて、読みとりくにいのである。ただ火野葦平の戦争記やハンセン病や貧困者を語ったルポタージュは読ませるものがあった。

 この本は1930年代の総動員体制にむかう時代に、女性や子ども、貧困者、病者といった「二流の国民」たちを自発的に共同体に組み込んで、あらたな「われわれ」を立ち上げるさまを拾いあげた本ということになるだろうか。

 そこには当事者の想いが抹殺され、兵隊や医師、教師の一方的な読み方や語り方が強制される構造があり、著者はそのさまを繊細に執拗あぶり出してゆき、これには読ませるものがあった。「正義」や「善」が弱者や悪者を一方的に「悪」にしてゆくさまに似ており、正義漢の一方的なまなざしに思わず唸らされるところがあった。

 文筆を専門としない広範な人々を書き出すこと――これが総動員体制の共同体意識に必要だったということである。均一な「日本人」という物語に回収されてゆくわけである。

 このことと歴史を問いかけたと思われるこの本がどう結びつくのかよくわからない。歴史というのは当事者の内面を排除した国民の物語にすぎないということをいいたいのか。なぜこの本はルポタージュの著者のまなざしを追ってゆくのか、読んでいる途中よくわからなかったが、排他的な共同性の回避をめざしているわけなのか。私にとっては判然としない書物であったのである。





 ■国家とは他国との優劣である。       2005/4/4

 『日韓いがみあいの精神分析』 岸田秀 金両基
 中公文庫 1998 629e

 


 新聞やニュースが不毛な論争をくりかえしているからあまり関わりたくない話題だったのが、歴史とは何かという文脈で知りたくなったので、岸田秀の分析を読みたいと思った。

 目をそむけてきた話題だったので勉強することはたくさんあった。国家の関係に精神分析をあてはめればトンデモ本に近いものに感じられるが、岸田秀はけっこう歴史に造詣が深いことに感服した。

 日本のアイデンティティは朝鮮半島の影響を否定することにあり、韓国は日本に文化をあたえたことがアイデンティティになっており、おたがいの価値の否定がアイデンティティの根拠になっているから関係が厄介になるという。

 そのうえさらに日本は西洋に劣等感を抱いたからその補償として自分より劣等の存在を見つけようとして韓国やアジアを差別するようになった。

 国家というのは他国の比較において、あるいは優劣を競うためだけに存在しているように思える。それ自体が存在の根拠ともいえそうである。自国の歴史が優劣感情の温床になるのは当たり前のことなのである。優劣が測られる歴史というのは、ほんとうに史実を現されるのか、かなり疑問に思う。

 日本が建国されたのは白村江で敗北して唐・新羅連合軍が日本列島に攻めてくる脅威からはじまったのだという。外敵の脅威がなければ国家のアイデンティティは必要ないのである。それいらい元寇や西洋列強が攻めてくるたび、日本は強烈なパワーアップや中央集権を必要としてきたのである。

 そこにはストックホルム症候群のような攻撃者との同一視がはたらくから、模倣と差別がおこなわれるというわけである。

 国家や歴史というのは他国との優劣基準でしかない――これは個人の自我も同様であって、われわれはこの愚かな優劣を競い合うという関係からどのようにしたら逃れうるのだろうか。個人の自我なら無我という宗教的方法があるが、国家にそれができるものだろうか。





 ■日本人の歴史観は人物からつくられる?      2005/4/7

 『時代小説の読みどころ』 縄田一男
 角川文庫 1991 940e

 


 私は時代小説をまったく読んだことがない。時代劇もほとんど見たことがない。『木枯らし紋次郎』と『必殺仕事人』くらいである。時代劇というだけで興味がなくなる。

 そういう私がこの本を読んだのは、日本人の歴史観が時代小説にあらわれているのではないかと思ったからである。歴史ファンというのは教科書や学術書より、時代小説の登場人物から歴史を認識しているのではないかと思う。日本人の歴史観というのは人物によってつくられているのではないか。

 日本人の歴史観をさぐるという意味合いでこの本を読んだわけである。ほうほう、なるほど、日本人は歴史のこういう人物や物語に興味をもってきたのかと、なにも知らない私は感心したわけである。

 捕物帳が流行ったり、ニヒルな剣豪や忍者ものが流行ったり、ビジネスマンに読まれる戦国・維新モノが注目されたり、股旅ものがブームになったりした。いずれも流行した時代背景からその理由を探り出すことができるだろう。

 ヒーロー像も時代により変遷しており、この本では覇者3代や武蔵、忠臣蔵、次郎長と忠治、新撰組なとがとりあげられていて、その変遷は時代の求めているものを写しているのだろう。

 私は歴史にあまり興味をもたない。もったとしても社会や経済にかんしてであって、人物にではない。多くの歴史ファンは物語に登場する歴史人物から歴史に興味をもつのではないだろうか。

 それは現在に存在しないカリスマを求めての探究のように思える。歴史ファンやビジネスマンはカリスマたる存在がことのほか好きなようである。カリスマのように評価され、認知される歴史人物のようになりたい――歴史ファンはそのよう希求をもっているのではないだろうか。

 かれらの人物評や自我像はいつも結果から見られるだろう。自分自身も歴史の人物のように捉えているのではないだろうか。それは自分を縛る拘束着にならないかと思わなくはないが、杞憂に過ぎないというものだろう。ただ、かれはヒロイズムに染まった人生観をもつことだろう。





 ■歴史興味には歴史の断絶がある        2005/4/10

 『歴史小説に学ぶ』 江坂彰ほか
 プレジデント社 1995 1650e

 


 雑誌『プレジンデント』にのせられた歴史小説評をまとめたもの。やっぱり歴史小説はビジネスマンに読まれているのである。歴史ものにビジネスを読みとることはそんなに可能なのか。

 この本では津本陽『下天は夢か』、山岡荘八『徳川家康』、池波正太郎『真田太平記』、子母沢寛『父子鷹』、司馬遼太郎『坂の上の雲』、水上勉『一休』など歴史小説の有名なものがとりあげられている。

 私はやはり歴史ものには色を失うような興味しかもてないのだが、『真田太平記』の領民に慕われた信之にはげしく感動し、無頼の姿を子どもに教えた『父子鷹』に興味をもったくらいだ。歴史小説って読んでおくほうがいいのか。

 ヨーロッパでは歴史が昨日のことにように生活の中に生きているのだが、日本は戦後、生活の中から歴史がなくなってしまった、だから歴史小説が読まれるのだと会田雄次が指摘していた。なるほど、歴史の生活からの断絶が、歴史ファンを生み出しているのだな。

 あとひとつ思ったのは、日本の歴史人物は小説なり伝記でとりあげられるが、外国の歴史人物はほとんど紹介されないのは気になるところだ。そもそも外国にこんなヒーローものがたくさん生み出されているのかすら疑問に思える。こんな狭いナショナリズムでOKなのか。




 ■中高年が若者の仕事を奪っている       2005/4/11

 『仕事のなかの曖昧な不安』 玄田有史
 中公文庫 2001 590e

 


 不況が何年も続いた90年代後半、中高年ホワイトカラーの失業が社会問題になる影で、若者の10%の失業率はただ若者の怠け癖のせいにされた。

 そういう状況の中で、中高年の既得権益のために若者の仕事が奪われていると指摘したこの本は意味があったのだろう。サントリー学芸賞や日経・経済図書文化賞を受賞している。

 私にとってはデータばかりを読むこなすのにだいぶ疲れたし、楽観的なビジネス書になるような後半にはあまり関心をもてなかった。失業やフリーターにならざるをえない若者を擁護しているという点ではいい本であると思うが。

 ただなにか物足りない読後感がのこったが、それはやはりサラリーマン社会や会社中心社会を批判する目がまったく欠けていることにあったのだと思う。失業やフリーターになるのは生産マシーン国家への静かな抵抗があるからだと思う。その点がすっぽり抜け落ちているこの本はてんで若者の代弁書とはなっていないのである。

 悪いのは中高年の既得権益で、会社中心主義をまったく問題にしない視点は、若者を生産マシーン国家に放り込むだけの結果に終わってしまうだろう。





 ■ひきこもりとは社会の機能不全だ      2005/4/12

 『「負けた」教の信者たち ニート・ひきこもり社会論』 斎藤環
 中公新書ラクレ 2005 760e

 


 ニートやひきこもりになるのは、私自身のなかにもあるコミュニケーションの苦手意識や現状否定のプライド、世間の目を怖れる心などが拡大・延長されたものであるという思いを強くした。就職を忌避した私は、かれらと同じような心情をもっていると改めて思った。

 自分の中の弱い部分を延長してみたらひきこもりになる気持ちがよくわかる気がした。大人や社会とコミュニケーションすることを怖れ、就職に自尊心や自己愛をすべて賭け、社会を否定的に見ることにプライドを保ち、近所の目をやたら気にしていた部分が延長されれば、ひきこもりにならざるをえないんじゃないかと思った。

 これはいまの社会経済の姿をそのまま写しているんだと思う。学生は社会の大人と接することはてんでなくて過剰な不安を抱かせるし、学校や地域と職業社会の接点はぜんぜんなく、地域から見れば職業社会は遠くの閉ざされた世界に見えるし、それらの接続はひじょうに弱く不況と重なって就職への壁は高いものになっているし、近所の世間体の目というものはブチ切れるほどうっとうしいものである。社会の機能不全の面がすべてひきもりに背負わされているように見える。

 学校と郊外住宅地が企業社会から隔離されすぎた結果なのだと思う。学校という高い塀が若者の働いて生きる道をぎゃくに閉ざしたのである。子どものころから丁稚奉公に出されていたら、彼らはいまのような社会の恐れを抱く暇もなかっただろう。子どもと主婦だけの空間になる学校や地域社会を職業社会のなかに融合させる必要があるのではないかと思う。

 あと一点、ひきこもりやニートを不安な面や恐ろしい面ばかりからみる傾向が強いが、あまり深刻さや病理的にとらえるのはよくないのではないかと思う。かれらは心理主義化された社会の格好の餌食なのである。非社会性を恐れるわれわれ自身の不安なのである。

 古今東西の歴史の中でひきこもったり、働かずに生きてきた者などたくさんいたのではないか。仙人や聖職者はそういう生き方こそを崇拝してきたのではないか。いっそ仙人をめざしたらいい。それらを異常視するまなざしを問え。

 なおこの本のはじめまではかなり期待をもって読めたが、雑誌に掲載されたものであるから当時の時事問題ばかり読まされ、かなり倦んだ気持ちになった。本というのは時事問題にとらわれない長く読まれる問題をあつかうのではないのか。今日明日に古くなるような新聞や雑誌ではない。もうすこし長期的・本質的な内容ではなかったのが残念である。




GREAT BOOKS

 ■ボロクソ柳田国男。        2005/4/17

 『南島イデオロギーの発生』 村井紀
 岩波現代文庫 1992+2004 1200e

 


 柳田国男がボロクソに批判されていると思った。そして知識というのはこうでなければと思った。知識というのは政治の衣をまとっているものである。

 柳田国男は民俗学の祖として崇められているが、そもそもは農政官僚であり、政治家として植民地の政策研究をおこなっていたのである。つまりは民俗学というのは植民地侵略のイデオロギーとして作用したのである。

 たとえば沖縄人やアイヌ人は古来日本と同じ民族であったといわれたりするが、それは植民地支配を正当化する言説になったりしているのである。それが韓国や大陸に延長されたりすると、大日本帝国の版図になるのである。

 知識とは恐ろしいものである。何食わぬ顔で客観や中立を装いながら、高度な政治的支配の正当化になっていたりするものである。もし韓国や中国が日本人と同じ民族とされるのなら、支配が正当化されることになる。民俗学は知識において植民地主義をおこなっているのである。

 こういう知識をほかの面から見ること――政治やイデオロギーとしてみることはものすごく大切な知恵だと思う。純朴に主張や表面だけを信じると、ヘンな方向に権力の片棒をかつがされたりする。すべての知識は政治の結果をもたらすという警戒はたえずもっておくべきであると思った。

 なおこの本は精緻な分析がおこなわれていて、私は多くの文脈を噛み砕いて理解できたとはとうていいえないから、もっとかんたんな概要にまとめてくれたらよかったにと思わなくはないが、それは私のレベルの問題なのだろう。ともかく重要な本である。




 ■武蔵はなぜ読まれるのか         2005/4/23

 『武蔵と日本人』 磯貝勝太郎・縄田一男
 NHK出版 2003 2000e

 


 武蔵にまったく興味がない私が武蔵はなぜ読まれるのかを探ったこの本を読むのはムリがあった。読むのがとどこおった。

 さいきんはマンガの井上雄彦『バカボンド』が3500万部売れ、あまり評判がよくなかったようなNHKの大河ドラマになり、昭和10年に書かれた吉川英治の『宮本武蔵』はいまだに読みつがれている。その吉川版宮本像を中心にこの本は書かれている。

 私が武蔵に興味がないのはもともと歴史上の人物に興味を抱かないこと、武勇伝的価値をもたないことなどがあげられると思う。人をばったばった斬ることに価値を見出さないし、修養的人生にも興味がない。この本を読んだのは歴史はなぜ読まれるのかというテーマ上のことである。

 武蔵は吉川英治の求道型武蔵像があらわれるまでは講談の仇討ちが中心であり、吉川はこんにちの武蔵像を決定した。大衆文化研究グループによると、「修養、骨肉愛、あわれみ」の三徳目が吉川の読まれる要因だとした。

 吉川版がこんにちでもベストセラーたりえているのは国民的危機感を前提に書かれた時代であったこと、武蔵像の非情と権謀のなかに戦時下の非情に生きなければならなかった庶民のたくましさがあらわれているという。

 戦後の歴史小説は山岡荘八の『徳川家康』や司馬遼太郎の『竜馬がゆく』、津本陽『下天は夢か』のように組織のリーダーとしての姿がビジネスマンに読みこまれた。歴史小説はビジネスのリーダー論や組織論だったわけだ。孤独な求道者たる武蔵には決してないものである。武蔵が読まれるのは強靭なる個が渇望されるようになったといえよう。





 ■これは人生の事典である。           2005/4/24

 『人生相談「ニッポン人の悩み」』 池田知加
 光文社新書 2005 720e

 


 かなりおもしろい。悩み相談の変遷のなかに見事に日本社会のありようを浮き彫りにすることに成功している。悩み相談は日本社会の鏡でもある。

 人生相談のなかに私も自分と同じ境遇を見出したり、状況を解説するキーワードを発見したりしたものである。ただ回答者の価値観の押しつけはよく反発したものだが。

 この本ではおもに女性の家庭や離婚の悩み、男性の仕事観の変遷、学校の意味の変化などがとりあげられていて、その移り変わりの鮮明さにたいそう感心した。主婦の忍耐から離婚をすすめる価値観への変化、余暇志向と求職難の時代のフリーターやニートの状況、そして人間完成のために学校に行くという考え方から勉強がよい将来に結びつくとは考えられない現在への変遷など、人生相談が現代社会学の教科書のようになっている。

 個人のナマの悩みの声だからこそ、社会の変遷はリアルさをともなって読者の心に響いてくる。悩み相談とは優れた社会学書になるものである。こういうところに目をつけた著者の目は鋭いと思う。著者の卒業した桃山学院大学の社会学部は私も行きたいと思ったのだが、不本意ながらほかの経済学部を選んでしまい、自分の好きなことを見つけるのが遅くなってしまった。

 この本でいちばん驚いたデータは「一生懸命勉強すれば、将来よい暮らしができるか」という質問で(2002年)、父親母親ともの七割が「そう思わない」と答えていることである。こりゃあ、学校が早晩終わってしまうと予感させるデータである。本当の勉強とはいえないと思っている親も六、七割に達しているのである。

 「日本の将来は明るいか」という質問では高三の七割が「そう思わない」と答えているが、奇妙なことに「幸せか」と聞かれると九割が「幸せ」だと答えているのである。身近な友だちとその日を楽しく過ごせればいいと思っている若者には、日本の閉塞状況や将来設計はもはや視野の外にあるのである。見事に江戸時代のその日暮らしの庶民に戻ってしまったようだ。

 この本は悩み相談とデータにより見事に日本社会の変遷やありようを垣間見せくれる本である。そして悩み相談のなかに自分の現在の境遇や将来の悩みを見ることになるだろう。われわれはここから自分の人生を考えることもできるのである。

 そして人生モデルや規範がなくなった現在、自分で選択して決断しなければならないと回答者に迫られるようになり、解決も責任も自分にゆだねられるようになった。大きなものに頼れる時代の郷愁を捨てなければならないのである。





 ■小説を読むより便利である。      2005/4/26

 『司馬遼太郎エッセンス』 谷沢永一
 文春文庫 1985 407e

 


 はやくも文庫本で見つからないので古本の単行本で買った。

 司馬遼太郎から日本人の歴史観をさぐろうという試みなのだが、小説を読むのはめんどくさい。ということで『翔ぶが如く』や『胡蝶の夢』、『菜の花の沖』などが紹介されたこの本を読んだ。ほんとうは本人の作品を読むのがいちばんいいのだが、小説はよけいなエピソードや物語があるので回りくどい。

 人間社会を知ろうと思えば、歴史はなにか人間の本質を指し示しているはずである。しかし私は社会学や哲学に興味はもてても、個別的な歴史にはどうも興味が向かない。個別の中から普遍を見いだす作業がめんどくさいのだろう。だが人間とは個別の中に学ぶしかないのではないかと思わなくもない。

 谷沢によると司馬は概念は生きた歴史を冷凍するに過ぎないという。司馬は個別の事象の中に個別の教訓を見出した、あるいは普遍の教訓を垣間見ようとしたのかもしれない。

 まあ、司馬遼太郎の洞察するいろいろな歴史が楽しめた本である。





 ■自由主義史観の批判論集        2005/4/30

 『ナショナル・ヒストリーを超えて』 小森陽一/高橋哲哉[編] 
 東京大学出版会 1998 2500e

 


 自由主義史観や「新しい歴史教科書をつくる会」を批判するために編まれた論文集である。べつに度肝を抜かれるような本ではなかった。

 私はこの戦争責任論を避けて無視してきたほうだ。国家の話をするよりポップカルチャー好きのあまりにも小市民だったから、嫌悪感が先にたち、関わりたくはなかった。国家より自分の身近な労働や社会組織について考えるほうが大切だと思ってきた。

 さいきんちょっと古代史をかじるとめちゃくちゃ国家のイデオロギーぽかったので、歴史のそういう面を追究したいと思ったのである。近現代を読み進めるかはわからない。

 戦後の日本は軍部が悪であり、国民はだまされたという言説を流布してきたが、おそらく現在韓国や中国で反日が盛んなのは、同じ路線を経済で無自覚に行っているから反発されるのだと思う。経済の優越性、拡張主義に反発されているのである。戦争と同じ蹂躙をされていると彼らは感じるのだろう。どこまでも無反省な日本人である。

 この本で特筆すべき論文は長谷川博子の『儀礼としての性暴力』で、これだけは読む甲斐があったと思わせた。戦争にはかならずレイプがつきまとうが、個人の性欲のせいにされるが、じつは敵の共同体を脅かしたり、共同体の誇りや名誉を陵辱するためにおこなわれるという指摘には度肝を抜かれた。女は共同体の象徴であり、名誉の財なのである。ものごとを個人のせいにする愚かさは、ほかの原因論にもよく見られ、あらためてその貧しさを思った。




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