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 ■050206書評集 歴史と優劣感情とナショナリズム



 ■天下人神話なんていらない。        2005/2/6

 『天下人史観を疑う』 鈴木眞哉
 洋泉社新書y 2002 720e

 


 われわれの天下人神話の思い込みを剥ぎ落とす爽快な本である。天才化・偉人化された天下人はあまりにも現実にはありえない。

 なぜわれわれは天下人神話を必要とするのか。やはり現代の矮小化された人生があるからだろう。空想の中でせめて国を支配するような偉大な人物になりたい。それが神話化された天才を呼び起こすのである。

 天才願望に彩られた天下人はやはり現実のすがたではない。天下取りの結果から見れば天下人は天才にみえるかもしれないが、かれらとて合目的に行動したとはいえないし、そのときを生きていた彼らに結果など見えていたわけなどないのだ。天下人は結果から見えるわれわれの巨大な願望なのである。

 この本ではほかにもいろいろ雑学的知識が学べる。天下人とみられる源頼朝は東国の土地を支配したにすぎないこと、強い権力をもった藤原氏、平将門、三好長慶、細川政元などは天下人とみとめられていないこと、天下人といわれる人たちだってたまたま天下が転がり込んできたにすぎないなどのことがわかる。

 天下人の意外な一面がみられる感銘することしきりの本だが、私としては天下人を必要とする、あるいは実像をゆがめてまで天下人を創造しようとする現代人の心性こそをとりあげてほしいのだが、これは歴史家の仕事ではないのだろう。

 だれか歴史を、時代劇や時代小説を必要とする現代人の心を分析していないものだろうか。





 ■朝鮮ショックはまだつづく      2005/2/8

 『古代日本と朝鮮』 司馬遼太郎 上田正昭 金達寿編
 中公文庫 1974 838e

 


 飛鳥は「日本人の心のふるさと」といわれるが、その日本国の中心地が朝鮮人で占められていたということを聞くとどう思うだろうか。日本人の原初が空っぽになった気がする。

 このことは教科書で教えられていたのだろうか、日本人の多くは知っているのだろうか、あるいは専門家だけの知識なのだろうか。

 無自覚である「日本人」であるということの揺さぶりをかけられた気がする。また日本国人であるとはどういうことであるのかという疑問をつきつけられたように感じる。日本国のはじまりはなぜ日本人でなければならないのだろう?

 この本は座談会であり、個人的にはこういう関係の本は三冊目にあたり、インパクトはだいぶ弱まって読む進むのが遅くなったが、この朝鮮ショックはまだなぜか味わいたいのだ。無自覚である日本人ナショナリズムを反省させられているからだろうか。





 ■戦争の死などあっけないものである。

 『マンガと「戦争」』 夏目房之介
 講談社現代新書 1997 640e

 


 マンガの一シーンをのせた解説本はかなり好きである。そのヒトコマが栄える。印象に刻まれる。またマンガの読み方もわかって、マンガを読まなくなった私にもメッセージを知ることができて、かなりおトクな気がする。

 私の好きなマンガ解説本は藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?』や宮台真司ほかの『サブカルチャー神話解体』などである。でもなかなか良著にめぐりあわないのが残念である。

 手塚治虫や水木しげる、滝田ゆうなどまでは戦後体験は濃厚である。しかしそれ以降の『ゴルゴ13』や『デビルマン』、『アキラ』、『風の谷ナウシカ』などにはほぼその体験は払拭されている。もはや日本の戦争など語っていないのだ。

 『気分はもう戦争』のように「気分」で密航船にのりこみ、「あ…れ…?」と撃たれるくらいのリアリティでしかない。TVのニュース映像か、ゲームのリアリティとしか感じられない。そこまで戦争体験は遠くなっているのである。

 『僕らはみんな生きている』ではTVリポーターやキャスターの「正義」をまとった人たちが、悪者にされる日本の商社マンとなんら変わらないと風刺されていて、小気味よさを感じた。

 水木しげるの戦記マンガは戦争の死を劇的なものではなく、偶然なものとして描く。ふつうの人たちが病気や輸送船の撃沈などでふいに転んだように死ぬ。『総員』の主人公もだれにも見とられることなく、忘れられて死んでゆくのだなあとつぶやく。そこには英雄主義も犠牲行動の賛美もない。

 夏目房之介という人はふだんマンガは時代を映すという反映論を批判して表現論をおこなっているようたが、やっぱり反映論でないとおもしろくないんだな。たしかに作品と時代にはなんの関係もないといえる部分もあると思うが、生理的気分があらわれるマンガには時代の変化を読んでほしいんだな。






 ■なぜ私は国家の優越を必要とするのか。     2005/2/12

 『ナショナリズムの克服』 姜尚中(カン サンジュン) 森巣博
 集英社新書 2002 700e

 


 なぜ自国や自文化は優れたものでなければならないのだろう? なぜ自国を自慢しなければならないのだろう? 自分となんのつながりがあり、なんの関係があるというのだろう?

 自国を誇ったりすることは恥ずかしいことだと私は思う。まるで親バカのようにひとりよがりで視野狭窄におちいっている。自慢話は客観性や中立性が失われるから、したくない。

 そう思う私でも日本の経済大国神話や日本文化が優れているといわれれば、胸をくすぐられている気分になる。できればこういう無意識を問い直し、偏りをなくしたいと思っている。自慢に溺れる人はあわれなのである。

 戦争責任のかかわりではあまり考えたくない。大衆文化やポップカルチャーで育ってきた私には北朝鮮を見るような断絶があるし、自分の問題として考えることは不可能だ。現在を生きる者としてはあまりにもムダだ。私は大衆文化のナショナリズムをこそ問い直したいのである。

 90年代からネオ・ナショナリズムといったものが勃興しはじめたが、湾岸戦争や9.11事件、イラク問題、北朝鮮問題などがその背景にあるのだろう。ナショナリズムは劣等感が芽生えると生まれるらしい。

 私は自国を自慢にする偏った見方を排除したいと思うし、できれば国民や国家でくくられるようなアイデンティティはもちたくない。映画やポップカルチャーは国境など関係なく浸透しあっているし、国家という単位でなんか制限されたくない。

 ナショナリズムといえば、左翼とか右翼とかコワいタームが噴出しまくりだが、優越とか劣等の感情論をのりこえて、自国や自文化を自慢にしなければならない心性を分析したいと思う。

 この本はナショナリズムにはどういう問題が含まれているのかと概括できた、ぼちぼち参考になった対談集である。






 ■制服に惹かれる理由とロリコン男の分析      2005/2/13

 『感じない男』 森岡正博
 ちくま新書 2005 680e

 


 扇情的なAVやポルノはいくらでも出回っているのに、性を哲学した本ってけっこう少ないのである。フェミニズムあたりだけが考えていて、性を冷静に客観的に哲学した本がかなり見つからない。

 性という人間にとって当たり前のものが考えられていないというのはおかしな状況である。性の公共的なタブーがまだ根強いからなんだろうか。

 学術文庫や新書あたりにアカデミックなエロ論が増えてきたが、性を学術するのはぜひ必要だと思うのだが、売る側も読む側も低きに落ちてほしくないものである。煽情、欲情させるためだけの本になってほしくない。

 さてこの本は制服に惹かれる理由やロンリコン男の心理を分析していて、たいへん興味が魅かれるもので、ネットでも話題になっていたりして、期待も高かった。

 でも根本的に男の不感症というものがよくわからなかった。射精後の罪悪感のことをいっているのか、私にはその感覚が少ないから、根本的なものにつまずいてしまったのかもしれない。

 制服に惹かれる理由を探った章はなかなか思考のスリリングさを感じられてよかったが、結論が学校という「洗脳」の場に自分の欲望を重ねていると答えられていて「おおーっ」と思ったのだが、冷静になってみたらたんに自分の思い通りになる女を探しているというだけのことじゃないかとがっくりきた。

 制服に惹かれる理由は、たんじゅんに社会的な拘束が快楽の我慢と解放をもたらすからでいいのじゃないかと思うのだが。

 ロリコン男の心理の章は「モーニング娘。」に性的サブリナルが組み込まれているという指摘には驚かされた。彼女たちは「元気印の少女たち」ではなくて、「仮面をかぶった少女ポルノ」だというのである。

 性的対象の低年齢化はひじょうに問題だと思ったのだが、この流れは20年前の女子大生ブームからはじまり、90年代の女子高生ブームとつづいてきたのであって、とうとう中学生や小学生まで来てしまったかという感がある。

 「青田買い」である。古い時代や未開民族では初潮をむかえるころから結婚することはふつうのことだし、オランウータンも少女を「誘拐」してきて育てて妻にするらしいから、性的対象が低いのはふつうのことかもしれない。ただこの学歴社会は自立する年齢が遅くなる一方だから少女を性的対象にすることがタブーになるのであって、経済と本能が拮抗しているわけである。解決はどちらにあるのか。

 ロリコン男になるのは男の身体とセクシュアリティを否定しているからだといっている。う〜ん、やっぱりコミュニケーションや男女平等、男の過重な経済責任があるからなのではないかとも思わなくはないが。ロリコンを「病気」にしたいのは経済的要請がつくりだす「神話」ではないのか。

 性を問うということはとても大切なことだと思うのだが、この本の答えの出し方がほかの解釈をいくらでも思いつかせるものであって、私にはトンデモ本に近いのではないかと思わせるところもあった。岩月謙司みたない不穏なものではないが。

 性を分析することはとても大事な作業だと思う。それは性衝動にふりまわされずに性をコントロールできる人間や社会をつくることにつながると思う。性がわからないままだったら、性は暴走したままである。冷静で客観的な知恵をもとめたいものである。






 ■物語は探らなければ深くはならない。      2005/2/14

 『「宮崎アニメ」 秘められたメッセージ』 佐々木隆
 ベスト新書 2005 780e

 


 宮崎駿のアニメってテーマはわりとわかりやすいほうじゃないのかと私は思っていた。文明と自然の対立とか、欲望の寓話だとか、解釈下手の私もなんとかわかると思っていた。

 でもテーマやメッセージの読み方というのは一冊の本ができるほど、探れば探るほど深みがあるものだと、この本を読んでいて思った。考えることを手放したら、もうそれ以上の深みはないのである。

 物語の謎解き本というのはおもしろいと思う。自分ではまったく気づかない読み方や解釈を見せてくれるから、それはまるで手品の種明かしみたいなものに思える。

 「そんな意味が込められていたのか」だとか、「こういうメッセージが込められていたのか」と、ぼんやり見終わっただけでは思いもつかない種明かしを見せてもらえるのである。物語というのはやはりこんなところまで理解したいものである。

 この本ではハウルやトトロ、千尋、ナウシカ、もののけ姫の5作が解釈されているが、私には千尋の解釈がいちばんよかったのではないかと思う。「千を尋ねる」という名前の意味とそれが忘れられること、カオナシがどういう人物を象徴しているか、それから千尋はなにを学んだのかということなど、ファンタジーだから謎解きの題材はもりだくさんである。私には社会で働くことの意味を教えられる映画だと思うのだが、子どものころにこんな映画に出会えた人は幸せだと思う。

 宮崎作品のなかではスケールの大きい『もののけ姫』がいちばん好きだが、解決がどのようにつけられたのか、はじめてこの本に教えてもらった気がする。

 しかしこの本はいったい何歳くらいの読者に向かって書かれたのだろう。かなり大人向きの感じがするし、ちょっと知的レベルが高くないと読み通せないのではないかと思う。小学生とか中学生で理解できるのかな。子どものほうがもっと宮崎作品の解釈を知りたいと思うのだが。





 ■崇りや怨霊が新聞の一面記事になった時代      2005/2/17

 『京都 秘密の魔界図』 火坂雅志
 青春出版社プレイブックス 1992 780e

 


 この本を読んだら京都めぐりに興味魅かれるようになるかなと思ったけど、恐ろしさや不気味さを煽っているだけの本にしか思えなかった。

 新書よりぶあついプレイブックスとかカッパブックスは怪しくていかがわしい本をたくさん出しているが、たまにはそういう本のほうがおもしろいときもあるが、歴史上の京都はまさに御霊だとか魔界とかを真剣に信じていた怪しい本のような社会だったのである。

 おそらく新聞の一面に崇りが出ただとか鬼があらわれただの記事が大マジメに掲げられたような時代だったのだろう。崇りや怨霊に天皇や貴族たちは怖れおののいていたし、神社や神のはじまりはそれらの鎮魂や封印であったのである。おそらく神道や陰陽師、仏教僧などの知識人がひとびとを洗脳したのだろう。現代はそういう洗脳がなくなってよかった。

 でも過去の人たちがこうだったのだから現代人も違う知識によって同じ過ちを犯しているのだと考えるほうが妥当である。現代人は死後の不安を失った代わりに老後の不安というものに恐れ、必要以上にそれを守ろうとはしていないだろうか。平安京の人たちを笑えるほど人間は進歩なんかしていない。






 ■称賛を探す恥ずかしい日本の私。       2005/2/20

 『日本文化論の系譜』 大久保喬樹
 中公新書 2003 740e

 


 日本を賛美したり称賛したりする言説はひじょうにこころよい。だけどそんなものに依存してはならない。日本というものの「実体」は境界を探しても歴史を探してもどこにも線を引けるものではないし、優越や競争、果ては戦争といった愚かな泥沼におちいることになってしまう。

 日本の軍国主義を反省するのなら、われわれがこんにちもつ国家の優越を求める心性にこそおぞましさを見いださなければならない。こんにちでもまったく払拭されていないことをあちらこちらに見るだろう。

 日本文化を語った名著とよばれるものはナショナリズムにいろどられているものである。西欧に負けない優越した日本文化があるというわけである。この劣等感の補償としての優越心こそ問われなければならないのではないだろうか。

 この本でとりあげられている18冊の本も「西欧/日本」の「優越/劣等」という構図で捉えるべきではないだろうか。風土や民族、文化、歴史のなかに日本の優越や称賛をみいだそうとする涙ぐましい、あるいは恥ずかしい構図が見てとれることだろう。

 科学とよばれる客観・中立な学説であっても、恥ずかしいくらいこの劣等感の補償という構図が埋めこまれていることに注意しなければならない。人びとに読まれた日本文化論の名著はそれゆえに人びとに大々的にうけいれられたのである。

 この本でとりあげられているのは志賀重昂『日本風景論』、新渡戸稲造『武士道』、柳田国男『遠野物語』、西田幾多郎『善の研究』、九鬼周造『「いき」の構造』、川端康成『美しい日本の私』、坂口安吾『日本文化私観』などである。

 人生と本のダイジェストであり、人生も本の内容もたいへん読ませるものになっている。著名人がどのような人生を送ってきたのか、内容はどのようなものか、感嘆しきりである。とくに出自ゆえに遊郭におぼれた九鬼周造のドラマには読ませるものがある。ひさしぶりに新書らしい新書を読んだ。

 これらの文化論の名著は西欧の真似をすればするほど独自性やアイデンティティが失われ、大昔の日本文化に帰っていかなければならなかった日本人の悲哀を見ることができる。

 若者と老人の対比みたいである。若者は西欧のカッコよさに憧れ、老人は日本古来のダサい哀しみのなかに帰ってゆくしかない。日本の独自性や優越はそこにしかないのである。しかもそれもさかのぼれば遡るほど圧倒的な朝鮮や中国の影響にしか出会えないのである。

 われわれのなかにある優越と劣等の構図こそ消却されなければならない根本ではないだろうか。たとえば個人のなかでは劣等感の解消はどのような方法がいちばんいいのだろうか。

 優越感をとりもどそうとすれば劣等感は強化されるだけだから、対立を無化しなければならないのではないだろうか。心の問題は心がつくりだすものだから心を消す必要があるわけだ。それこそ日本古来の禅や仏教に学べというものだ。






 ■歴史とはそうとう歪められると考えるべきである。      2005/2/22

 『歴史から何を学ぶべきか』 小和田哲男
 三笠書房 知的生きかた文庫 2004 533e

 


 なかなかいい本だった。歴史の誤った思いこみにおちいらないために読んでおきたい本である。

 私は歴史があまり好きではないからすぐ疑いやこんなわけないだろうかとか、英雄史観や天下人史観とかにすぐ反発したくなるし、結果からの歴史とか正義が勝つみたいな歴史とかに疑いの目をもちたくなる。

 歴史にすなおにのめりこめるタイプではないので、とくにサラリーマンがこじつけるような戦国武勇伝みたいなものが好きではなかったから、現代人の好みや欲望によってゆがめられる歴史というものにもかなり警戒してしまう。だから歴史の懐疑論や認識論はまえから読みたかったのだが、あんがいこういう本はないのだな。

 歴史好きの人にとってはこういう歴史を疑う本ってなかなか手にとりにくいのではないだろうか。戦国武将や維新志士とか、太古の日本人とか、歴史のおもしろさやロマンにすぐにのめりこめる人にはことさら読んでほしい本である。でもなんらかの疑いや疑問をもたないとなかなかこういう本には目が向かないものだが。

 この本ではたとえば歴史から教訓を学ぶべきだといわれるが、昔におこったことを現代にまったくあてはめるのは危険があると後醍醐天皇の例をあげながら説明されていたりする。教訓を学ぼうとする性急さからは信長の奇襲作戦のように創作された歴史も生まれてくることを警告している。

 歴史というのはたいてい勝利者側から書かれるから敗者の事実さえ消されてしまうだろうし、英雄や偉人のみが歴史をつくり、庶民やその他の人たちはまったく何の意味もなく生まれて死んできたという印象を生み出すし、英雄はますます天才化され神格化されることになってしまう。

 歴史にもしもの視点を導入することで見えてくることがあることも教えられる。信長が本願寺・一向一揆をはげしく屈服させていなかったら、武家政権や公家政権ではないまったく新しい百姓政権や寺家政権が生まれる可能性があったことが見えてくる。

 歴史教科書はそのときの通説や定説をもとに書かれているから十年二十年たてばそれらは屍と化すことが少なくないといっている。「通説は書き換えられるためにある」といってもよいかもしれないのである。

 私はあまり歴史が好きではなかったが、ぎゃくに戦国武将や維新志士たちの物語にのめりこめる人たちを羨ましく思ったりする。どうやったら興味をもったり、好きになれたりするのだろうと思う。歴史に疑うことも必要だが、やはり人間の歴史の宝庫なのだから学ぶべきことが多くあるのは疑いないことである。






 ■自尊心と劣等感の争いの場としての歴史       2005/2/26

 『韓国人の日本偽史』 野平俊水
 小学館文庫 2002 476e

 


 どうでもいいや。韓国人が勝ったとか、日本人が負けたとか。

 事実だけを教えてほしいのである。しかしこの本のなかの韓国側の主張と著者がどういおうとしているのか私にはよく読みとれない部分も多くあった。

 歴史に事実なんかないのだろう。歴史には政治しかないのかもしれない。

 優越とか劣等とか、自尊心とか蔑視とかそういう目で歴史を見たくなんかない。もしそんな階列があったとしても事実どおりうけとりたいと思う。しかしそんなことを許さない人がいて、どっちが偉いだの、どっちが大きいだの、どっちが古いだの、などという比較優劣で歴史を見ようとしたり、都合のいい歴史をひっぱりだしてきたりして、歴史は自尊心と劣等感のあさましい争いの場になる。

 なんで人は民族や国家の優越心や劣等感を自分のことのように思うことができるのだろう。そんなものが私の持ち物でないのは明らかであるし、私の金で買えるわけがないし、こんなものに自己の自尊心や劣等感を賭すのは自己の範囲を拡げすぎである。せいぜいバックや車や銀行通帳までにしてほしいものである。

 国家に自己の自尊心や劣等感を賭す人があまりにも多くいすぎなのである。自分にはなにもないから国家みたいな大きなものに同一化して自分の価値を大きくしようとする。これは自分の自我を安定させるには役に立つのだろうけど、ことがらがあまりにも大きすぎるので制御できないことや不満や紛争が噴出しまくるので自我の範囲は狭くしたほうが得策である。ストア哲学や仏教みたいに外部はコントロールできないから自分にできるのは心やものの見方だけであると考えたほうが賢明というものである。

 韓国は隣国だからこそ、たいして変わりはしないからこそ、優劣は過剰なまでに競われる。歴史は偽史や捏造という言葉で揶揄される関係になる。事実なんか見い出そうとするのは不可能に思えてくる。あるのは優越と劣等を見い出そうとする歴史であり、政治としての歴史だけである。

 そもそも歴史というのは優越や自尊心を得るための存在なのだろうか。歴史が記憶される原動力はそれだけなのかもしれない。なぜ人は自分の記憶にない歴史を知らなければならないのだろう。大きく、偉く、古いものであるという自分にはない崇高なものを自分のものにしたいからではないのか。大きなものになろうとしたら、差別や蔑視を生むだけである。人間としてはあまり偉い道ではない。

 歴史を描く人にはまずはみずからの劣等感からうみだされる権勢主義というものを削ぎとった上で、事実としての歴史を究明してもらいたいものである。とうぜん私たち自身にも自分の優越感への願望という問題がつきつけられるわけだが。

 さて人間に事実としての歴史なんか描けるのだろうか。






 ■人は戦国武将になにを求めるのか       2005/2/27

 『戦国知将 強者の論理』 鈴木亨
 知的生きかた文庫 2004 571e

 


 私は戦国武将とか時代劇にはまったく興味をもてなかった。むしろサラリーマンが戦国武将に自分たちの姿を重ねる姿はなさけないと思っていた。サラリーマン文化というものが大嫌いだったのだ。

 だからこの本は人は戦国武将になにを求めるのかという視点から読まれた。サラリーマンや現代人は戦国武将に自分のどのような欲望を投影しているのだろうか。

 まあ、たしかにサラリーマンと共通しているところはあるのだろう、人を使ったり、賞罰をあたえたり、戦術や戦略を練ったりと。歴史の人物から学ぶことはあるのだろう。

 私は武勇や人の上に立ったり、人を使ったりすることになんの興味ももてなかったから、戦国時代には興味をもてなかった。歴史というのは自分たちの価値観が色濃く投影されるものだ。というより自分たちの価値観でしか歴史は見えない。いいや、自分たちの価値観が歴史の一部を浮上させるのだ。これが事実の歴史といえるのだろうか。

 現代サラリーマンの立身出世の欲望として戦国時代は伝承の闇からあらわれた。司馬遼太郎は戦国時代が日本でゆいいつ実力主義の時代だから評価するのだといっていた。

 私はサラリーマンのような卑小で奴隷的な存在が、死を賭した戦国武将と比べられるわけがないと思うのだが、戦国ヒーローはその卑小さを自覚したうえでの願望だと思うことにしよう。






 ■マンガは絵空事だから哲学的たりうる     2005/2/28

 『マンガは哲学する』 永井均
 講談社+α文庫 2004 648e

 


 マンガはここまで哲学的だったのかとわかる本である。マンガを読んで疑問や違和感を感じたとしても、それを言語化するのはけっこう壁がある。その疑問や違和感を言語化するのが哲学というものだと思う。

 人はマンガを読んでじゅうぶん哲学しているのだけど、それを言葉にはできないのである。思いや気もちのままでとどめてしまうのである。それを見事に言葉にできる人というのが哲学者なのだと思う。

 吉田戦車や藤子・F・不二雄に「意味と無意味」というテーマを見い出し、萩尾望都や吉野朔美に「私とは誰か?」というテーマを、「夢」というテーマで佐々木淳子、諸星大二郎を読み解き、「時間の謎」を『ドラえもん』や手塚治虫から読みとり、「人生の意味」を『天才バカボン』や業田良家にもとめている。ほうほう、そういうことを語っていたのかと感嘆させられることしきりである。

 マンガは思いっきり絵空事を描けるから、哲学的たりうるのだと思った。小説や映画の場合、より現実に近い分、哲学的にはなりえないのである。マンガは現実から離れるための思考の仕掛けのようなものである。より抽象的、想像的な言語操作のことこそ哲学というものである。

 ただこの永井均の本を読んで虚構相手にここまで考えなければならないのかと思った。それほどまでにしぶとく永井均という人は純粋に哲学している。だけど私にはずっとここまで考えるかという思いが強かったから、私の思考は哲学よりもっと現実的、機械的な思考に近づいているのだと思われた。思考のしぶとさにちょっといらだちを感じたくらいなのだから。

 永井均は大学の教員をしていて、哲学の学習が哲学的感度を殺す例を毎年見ているといっている。いつしか哲学界の問題とされている哲学をこねくりまわすだけの人になってしまっているという。そうなのだと思う、枠組みや鋳型にはめられてゆくのである。読書や学習から離れたところで考えるのはむずかしいことだけど、たぶんそこにこそ、はじめ自分が考えたかった哲学の問題があるのだと思う。そういう感性はたいせつにのこしておきたいものである。





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