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▼テーマは古代史

 



 ■050101書評集 ヤマト国家以前を探る



GREAT BOOKS

 ■日本のはじまりとは朝鮮国である         2005/1/1

 『日本古代史と朝鮮』 金達寿(キム タルス)
 講談社学術文庫 1985 1000e

 
  

 あ〜〜。唖然とするしかなかった。朝鮮は古代、先進国家であることはわかっていた。ここ大阪には古代朝鮮風の地名が多いことも知っていた。この本を読んでそんな甘い認識はふっ飛んでしまった。

 「いわゆる「大和朝廷」のあった飛鳥全体、高市(今来)郡全体の人口の八、九割までが「檜前忌寸」であった漢氏の彼らと、その彼らにより百済から率いられてきた「十七の県の人夫(人民)」とによって占められているのです」

 「古い『吉備郡史』をみると、「大和の如きは事実上漢人の国、山城は事実上秦の国」ということばがあります。」(漢人――安耶から渡来。秦――百済から渡来。)

 「――「大和朝廷」のあった飛鳥の地には、いわゆる「帰化人」のほかにはだれもいなかったということがわかります」

 「飛鳥も朝鮮語アスク(安宿)で、やすらかなふるさとということでしょう」

 「このころ(大化の改新) 新羅は善徳女王が死んで、真徳女王が立ち、真徳女王はその年号を「大和」とした。そして金春秋がその実権を握ることになった。
 このとき、金春秋は倭から来ていた高向玄理を帯同して倭国に乗込み、進行中の大化改革に拍車をかけて、倭国の名を新羅の年号「大和」としたものであるが、これが日本列島内に「大和国」というものの生まれたはじめであった」

 「朝鮮でほろびた百済国がそのまま日本の天智朝にきて重なった」

 日本のはじまりとは事実上、朝鮮からの渡来人によってはじめられたようなのである。これを読んで呆気にとられて、日本国の原初といったものが空っぽになった気がした。

 大化の改新も壬申の乱もそのころの百済と新羅の朝鮮情勢によって綱引きのようなものがくりかえされておこったというのである。日本には百済系の渡来人が多いのだが、朝鮮で新羅が強くなると、日本の新羅系渡来人も強くなり、天皇系もそれにつられて新羅系が力をもつという具合である。

 日本のはじまりがこのようなものであったのはがっくりだが、この本は古代史のからくりをひじょうに明快に解き明かしてくれるという点で、たいへんに知的好奇心が刺激される本で、かなり興味深かったといわざるをえない。おもしろい。

 日本の原初は朝鮮から見なければならないと思ったしだいである。




 ■ヤマト国家はどのように成ったかという謎       2005/1/4

 『ヤマト国家成立の秘密』 澤田洋太郎
 新泉社 1994 2000e

 


 著者もあとがきでのべているようにこの本は資料集のようものであり、ヤマト国家成立にかかわる多くのことを集めており、独創や卓見が光るようなおもしろい本ではない。多くに手を広げすぎている感じがする。

 ただ、私のような古代史しろうとにとって多くの人の見解を知り、いまはどの説が大勢に認められているかということをを知りたいので、いくらかは参考になった。ある人の本ばかり読んでいると、どうもその説を史実と捉え勝ちであるからだ。

 どうやらヤマト国家というのは朝鮮の争乱から押し出されてきた渡来人集団が、北九州、大和へと東遷してきて成った国のようである。古代の豪族であった物部氏や蘇我氏は渡来人の疑いが強い。

 日本の古代史というのは日本人がつくった国という発想より、朝鮮人がつくった国家であると捉えたほうがよいようである。古代において日本人がつくった日本国家という認識は成り立たない。

 それにしてもなぜわれわれはこの国が日本人によってつくられた国家でなければならないのだろう? 日本国家の権勢というものに自分のアイデンティティを賭ける心性はなぜ必要なのだろうか。国家間の対立はそこから生まれるのではないかと思う。

 なお、古代史関係でははじめての単行本を買った。あるジャンルを文庫本や新書で買うか、単行本で買うかには価値観の大きな違いがある。古代史には、私にとって単行本で買う価値はあるのか。




 ■神武は原ヤマト国家にほんとうに勝ったのか      2005/1/8

 『神武東征の謎―「出雲神話」の裏に隠された真相』 関裕二
 PHP文庫 2003 495e

 


 関裕二はもう4冊目になる。文庫で手に入ることと、つぎつぎに謎掛けを解いてゆく仕掛けが興味をひきつけてくれるから安心して読める。ただ推理と憶測が大胆すぎるとは思わなくはないが。

 初代天皇の神武天皇の最大の謎は、先にヤマトを支配していた饒速日がかんたんに政権を譲ったりするのかということだろう。『日本書紀』では饒速日は義弟を殺してまで神武を受け入れているのである。

 関裕二は『日本書紀』の裏を読むのが基本パターンのようである。神武は祟る神の末裔だったから原ヤマトはすんなりと受け入れたとされている。

 そこにはヤマト建国の裏切りが隠されている。崇りを怖れた勝利者側の歴史改竄があり、崇りを鎮めなければならないやましい理由があったのである。

 鍵を握るのが神功皇后である。ヤマトに裏切られた神功が祟るとされたからその末裔の神武が擁立されなければならなかった、と関裕二は謎を解いている。

 うーん、どうなんだろう、関裕二はパズルをつぎつぎに解いてゆく楽しさがあり、最後まできちっと謎が収まる快感はあるけど、なんかうまく収まりすぎる気も残るんだけど。

 まあ、古代史というのは史実がおぼろげであるからこそ神がかっていて楽しいとはいえるんだけど。

 
 神武天皇を祭る橿原神宮と畝傍山。




GREAT BOOKS

 ■歴史とは自己の正当化のことである        2005/1/10

 『歴史とはなにか』  岡田英弘
 文春新書 2001 690e

 


 ショックをうけた。そしてこういう歴史が書かれる目的を探った本こそ必要だと思った。前にもこういう本を探したこともあったが、見つからなかったのだ。

 歴史を叙述する本ではなくて、歴史を哲学する本だ。

 歴史というのはだいたい権力の正当化を主張するために書かれたり、自国の劣等感を補償するために書かれたり、または優越感を保持するために読まれたりする。そういう大前提に盲目のまま歴史を読むのは愚かである。

 日本の歴史が中国や西洋のコンプレックスから書かれたのは衆知の事実だろう。現代人が歴史に求めるものもやはり劣等感の補償であったり、優越感のとりもどしであったり、日常からの解放であったりする。

 アイデンティティの危機が歴史を必要とするのである。自尊心がほしいのである。この自覚がない歴史はヒロイズムや英雄主義に堕する。

 歴史とは自己の正当化の物語である。自分は立派でありたい――そういう欲求が歴史を必要とするのである。これは神秘家グルジェフのいう自我の機能(頭の中のおしゃべり)とまったく同じである。自我は自己の無価値さを知っているからこそ、それを必要とするのである。

 私たちは歴史のこういう卑怯さや矮小さを自覚してからこそ、はじめて「よい歴史」というものが求められることになるのだろう。自虐史観に偏りすぎるのもよくないが、英雄史観に毒されすぎるのも恥ずかしい。歴史の無意識の目的を知ってこそ、「よい歴史」は書かれるのである。

 歴史学をつき放して捉えたこの本はたいへんにおすすめの本であるが、それにしてもなぜこのような歴史学の心理学、歴史学の知識社会学といったジャンルは少ないのだろう。

 人びとが戦国武将や古代天皇、時代劇などにもとめるものの心性をもっと抉り出してほしいものだが、おそらく無意識の願望が自覚されたときから歴史はつまらないものに堕してしまうからなんだろうと思う。自分のようなちっぽけな存在ばかりの歴史はだれも読みたいとは思わないだろう。

 歴史を語る前にはまずこういう自己の補償機能と歴史史実をきっぱり切り分ける作業が必要である。





 ■神々の世界を写真で見る           2005/1/10

 『古事記・日本書紀を歩く』 長山泰孝監修
 JTBキャンブックス 1995 1456e

 


 写真でしめされた『記紀』ゆかりの地を見ることができる。ゆかりの場所がどこであるのかもわかって便利である。

 写真もきれいである。『記紀』の史実も描かれており、出来事と場所を結びつけるのに役立つ。

 ただガイドブックとしては詳細な地図が載せられていないため、当地にいけば苦労する。私は物部氏のゆかりの八尾市をたずねてたいへん迷ったぞ。観賞用の本である。

 私がこういう古代史跡めぐりに興味をもつようになったのはそもそもハイキングからだった。山すそには都市部にはない古代や民俗が濃密にのこっている。史跡めぐりに興味のなかった私もいつの間にか興味を魅かれるようになっていた。山登りにも意外な効用があったものだ。





 ■「ブルータスよ、お前もか」って気分       2005/1/13

 『古代朝鮮と日本文化』 金達寿
 講談社学術文庫 1986 960e

 


 日本のさまざまものに朝鮮起源のものを見つけ、日本のはじまりはほとんど朝鮮国だったんだなと知らしめる本である。

 この本では神社の起源や高麗(こま)神社、伊勢神宮、飛鳥や河内、北九州などの朝鮮と関わりのある神社や史跡がとりあげられているが、さいしょに読むには先に読んだ『日本古代史と朝鮮』のほうがいいと思う。

 日本には背振(せふり)とか添(そほり)という地名があるが、これは都を意味するソウルのこと、天照大神の荒御魂の別名を瀬織津比盗_(せおりつひめ)というがこれも「ソウル(都)のひめ」のこと、神功皇后の名は息長帯日売(おきながたらしひめ)であるが、朝鮮南部の多羅の姫のことである、神武天皇即位の地名カシハラ(橿原)はクシフル・クシヒのことで、韓国の王都の意とされる、とまあこんな調子である。

 それでもこの本は知のサスペンスに富んでいると思う。古代史の人物がどうのこうのというより、よほど知ることの価値があると思う。

 この国は日本人によってつくられたのではないと考えるほうがよいのかもしれない。




 ■おもしろくない本でありました。         2005/1/15

 『葛城と古代国家』 門脇禎二
 講談社学術文庫 1984 900e

 


 ほとんどおもしろくなかった。

 葛城と地名を冠するのなら、もっと地図上からの楽しみやロマンが見出せる本なら楽しめたと思うのだが、そういう嗜好の本でもなかった。

 しまった、しまった、この本はいぜんに読んだことがあったことを自分の書評をみて気づいた。このままではもう一回買ってしまいそうだ〜。要注意本だ。




 ■独身30代女性が市民権を得るための本だろう       2005/1/16

 『負け犬の遠吠え』 酒井順子
 講談社 2003 1400e

 
  酒井順子

 去年の流行語にもなった「負け犬」だが、ライトエッセイなので古本で手に入るまで読む気になれなかった。

 あまり読後感のよい本ではないが、負け犬の生態と女性への観察眼はかなり鋭い。独身30代女性の考えや思い、行動があますところなく述べられている。

 ただそのような人を観察し、批判し、評価するものの見方が、彼女の憂鬱や不幸をかたちづくっているのではないかと私は思うのだが。人を切る刃が返す刀で自分も切り刻むのである。

 「負け犬」という言葉をはじめて聞いたとき、独身女性がどんどん増えて行き、自立するキャリア女性がもてはやされる流れの中で、ここにきてどうして独身女性が「負け犬」なのかと思った。

 そもそも彼女たちは勝ち犬たる母親の家庭と育児しかない生き方に愛想をつかして、結婚をひきのばしてきたのではなかったのか。著者の酒井順子はそのような勝ち犬の不幸についてはまったく想像力を欠いているのがふしぎである。

 ただやはり厳然たる結婚と子育ての帝国があり、負い目は年を経るごとにしのび寄ってくるのだろう。

 そういう負い目の中、パワーボリュームとなってきた独身女性が社会での位置を明確にするために彼女たちはファミリー帝国に負けてやらなければならなかったのだと思う。もちろん負け犬さまがマーケットにとって無視できない存在であるからこそ、もてはやされるのだろうけど。

 負け犬さまというのはマスコミや消費社会がさんざんもてはやして生み出した存在である。子育てや家庭はつまらないといって、彼女たちを消費社会や企業社会にくみこんだ。生殖という人生にとって大切なものを置き去りにした経済優先国家の落とし子なのである。

 消費や経済を大切にしすぎた社会は子孫の再生産という生命のいとなみをなぜか欠落させてしまう。趣味や消費にうつつを抜かす人間は生殖に魅力を見出せなくなるのである。それを文化や文明の進歩というものかもしれないが、子孫の数が減るのなら本末転倒である。

 負け犬さんはこれからも増えてゆくことだろう。対して男のオタクもフリーターやニートも増える。女は自分で食おうとして、男は稼ぐ気力をなくして、おたがい生殖からどんどん離れてゆく。まあ人口が爆発しすぎたのだから調整弁が働いたくらいに思うのがいいかもしれない。

 問題は層をなしてきた負け犬さんが、結婚帝国から責められずにどうしたら幸せに生きてゆけるかということだろう。たぶん結婚は国家総力戦体制の残滓であり、以前は独身で終える人もたくさんいたのだと思う。またそういう時代にもどってゆくのだと思う。負け犬と呼ばれる女性はそういう時代への布石なのだろう。





 ■さまざまな庶民の神たち          2005/1/22

 『江戸のはやり神』 宮田登
 ちくま学芸文庫 1972+ 1000e

 


 神や仏を信じられない私にとって、神社や祠の存在はふしぎなものである。どうやったら信じられるのだろうと思う。それでも神々という神秘的な存在や神を祭る習慣といったものはそこはかとなく好ましく思う。

 日本人の神とはどのようなものだろうかと思ってこの本を手にとった。どのようにしてある神が流行り出したのか興味ある例がいくつもとりあげられていて、信仰の足跡をみることができる。ただ、なにかがわかるという本ではなかった。

 神を信じない者にとって、神とは現代のアニメや映画に奉じる想像力に近いものと捉えたらよいものだろうか、それとも神は場所に位置づけられるものだから旅行やレジャーに近いものなのか、あるいは共同体の要として考えたらいいのか、どう理解すればよいのだろうか。






 ■天皇家はなぜつづいたのか中世篇        2005/1/23

 『武家と天皇―王権をめぐる相剋』 今谷明
 岩波新書 1993 580e

 


 源氏や信長、秀吉、家康のような武家政権があったのに、どうして天皇家はつづいてこられたのか。二重権力が併存するようなへんてこな国家構造がつづいたのはなぜなのか。

 この本ではおもに秀吉と家康の天皇とのかかわりがのべられていて、まあ歴史初心者の私としてもある程度はたのしめた。古語であるとか後半のほうはさすがに意味をつかみかねたが。

 結論をいってしまえば、武家の首長を将軍に任官したり、大小の武家に官位を授与したり、武家を神格化する手続きに天皇がかかわっているからということになる。武家勢力がいくら突出した権力をもっていても、それを裁定する第三の立場が必要なのである。

 とくに武家が弱り目に当たったときには打ち出の小槌のように天皇の権威がもちだされてくるのである。

 秀吉は家康に負け、将軍の資格たる東国の支配がかなわなくなると天皇の笠たる関白の道を選び、天皇家の権威の下に全国平定をなそうとし、家康は大名の京都入りを制限したりして天皇家を抑えつけようとしたが、みずからの神格化のときには天皇の威を借りなければならなかったのである。

 武家や幕府が自信をなくしたとき、天皇の権威に依存するという体質は秀吉以来、一貫したものとなったのである。

 つうじょう、私たちは時代に突出した権力があらわれれば、専制的に思いのままにふるまえると思いがちになるのだが、ほかの権力や武家も存在し、NO.1を決めるには土俵の外の存在が必要となるようである。その役目をはたしてきたのが超越的存在たる天皇であったのである。いわばレフェリーである。

 素朴な歴史認識として突出した権力者というものが存在するものだと思いそうになるが、専横的な権力者など日本の歴史には存在できなかったようである。

 古代史の説でも天皇家は勝者たる権力者たちの崇りを恐れて祭られた敗者であったという解釈もある。

 権力というのは裁定する第三者が必要なようである。





 ■教科書のように断定された歴史なぞ存在しない     2005/1/24

 『歴史学ってなんだ?』 小田中直樹
 PHP新書 2004 680e

 


 思いだせば、歴史の教科書って断定されたものの言い方をしていたものである。あたかも絶対的な歴史が存在するかのように思いこまされたものだ。

 歴史にかぎらず学問というのは学者の間では「あーでもない」「こーでもない」と永遠に言い合っている井戸端会議みたいなものである。それが教科書になると、「絶対的な真実はこれだ」と決めつけられている。

 そんな真理がどこにも存在していないと一般の人が気づいたときに学問や読書のたのしみははじまるのである。たぶん一般の人はいまでも教科書で習ったように絶対的な真実は偉い学者が知っているのだと思いこんでいることだろう。だから学問や読書はおこなわれないのである。

 そういう思い込みを打ち壊すにはこの本は役に立つ。私もけっこう役に立った。

 「史実は明らかにできるか」と「歴史学は社会の役に立つか」というふたつのテーマで考察されているのだが、哲学や構造主義の領域にまでふみこんで人間は真理を知ることができるかという問題を考え、いくらか知っているはずの私でさえ、これはそういうことをいっていたのかと驚かされることしきりであった。

 問題の議論を歴史の流れから解き明かしてもらったから、流れを知らない私にはたいへん役に立ったのである。ばらばらにもやもやと知っているものが、ひとつの筋として、物語として整理させられた。そういう効用がこの本にはあった。

 歴史にかぎらず学問というのはどういうことが問題とされ、考えられてきたのかということをたえず、外側から問いつづけることが必要だと改めて思ったしだいである。

 でも私は歴史の真理性や有用性を考えるより、歴史をみずからの優越や権威のために必要とする現代人の心性を解いてみたいと思うのだが。





 ■タイトル負けの本です。       2005/1/26

 『自由という服従』 数土貞紀
 光文社新書 2005 700e

 


 タイトルにインパクトがあるのだが、つまらなかった。

 ゲーム理論だとかサッカー選手だとか、OLなんて題材は自由や権力という不穏なものにあいふさわしくないし、もっと抽象的で思索を積み重ねるような随想のようなかたちのほうがおもしろかったのではないかと思う。

 自由が服従に転嫁するさまを恐ろしく描かれていたらもうすこし魅力的な本になったのだと思うが。

 さいごの建築労働者が一人前と認められるまでの話だけはおもしろかった。新しい職場で仕事を教えてもらえない雰囲気のところってけっこうあると思うが、それは「見込みのある人間」を選抜するシステムなのだという。

 だれもが基本的な仕事をマスターするよう教育すると、のちに見込みのあるなしが判断できなくなる。だから新参者には仕事が教えられないという。私もこういう職場で仕事をきちんと教えたほうがメリットがあるのにと思っていたのだが、この本を読んではじめてその理由を知った。集団に受け入れられることは残酷な過程を含んでいるものである。






 ■ナショナリズムを必要とする心性を考えたい    2005/1/30

 『ナショナリズム』 浅羽通明
 ちくま新書 2004 900e

 


 ナショナリズムについてはあまり触れたくないんだな。

 戦争責任とか天皇制とか右翼とかあまりにも恐ろしすぎる。またなんでそんな化石みたいな話に大騒ぎできるのか不思議だ。だから新聞ジャーナリズムって嫌いだし、みんなにそっぽを向かれるのだと思う。

 私はナショナリズムについてはポップ・カルチャーのなかのナショナリズム、サラリーマンや企業、経済のなかのナショナリズム、一般大衆のなかのナショナリズムといったものは考えたいと思うが、戦争にかかわる問題は現代に生きる者としてはあまり関わりたくない。あまりにも後ろ向きすぎる。

 ナショナリズムを素通りしてきた私としてはこの内容の多くつまった本の評価はできない。よくわからない。

 でもこの本は郷土愛や国土、本宮ひろ志、司馬遼太郎、会社のなかのナショナリズムを探っていて、こういう問題なら私も考えてみたいと思わせる内容のものだった。

 なぜ人はGNPや国のランクづけなどに自己の価値を賭けられるのか、なぜ人は日本国の勝ち負けを自分のことのように考えることができるのか、なぜ人は国家の偉業や誇りを我がことのように見なせるのか、そういったことを私は考えてみたいと思う。

 またなぜ人はそのようなものを必要とするのだろうか。弱さや恐れ、存在価値のなさなどを埋めるためにそれはもとめられるのではないのだろうか。心理学からもナショナリズムは考えられているのだろうか。

 私は普通の人たちがもつ、あるいは大衆文化がもつ国家の優越心はなぜ必要とされるのか考えたい。





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