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 ■040711書評集






 『OLたちの<レジスタンス>』 小笠原祐子
 中公新書 1998 660e(古本)

 べつに社会学書というよりかエッセイに近く、目新しいことは書かれていなかった。




 『中世人の経済感覚』 本郷恵子
 NHKブックス 2004 1070e

 お金はいつの世も大事だ。お金が人の生き方や生活をおおいに規定づけていたと考えるのが妥当である。だからお金から人の世を捉えることはかなり重要だと思う。お金は歴史や政治を動かしてきたのだと思う。学校で教えられるように政治家や歴史人物が世の中を動かしてきたのではない。政治家が原因の歴史なんてぜったいおかしい。




 『思想なんかいらない生活』 瀬古浩爾
 ちくま新書 2004 820e

 おもしろかった。思想や知識なんか何の役にも立たないと「悟り」にいたった本である。まあ、思想や知識なんてそういう姿勢からかかわり、それでも知的好奇心がとまらないという人が読むものだと思う。マニアなんだから万人に強要したり、序列づけたりするのはまちがっている。

 思想書の中には「繰り返し沸いてきた疑問は、これはだれに向かってなんのために書かれた本なのかという疑問であり、――どこでどう間違うとひとはこんな場所に突入していくことができるのか」というちんぷんかんぷんな本がたしかにある。私もヘーゲルやカントやメルロ=ポンティで感じたことがある。

 私はそういう目に何度か合って、もう自分の興味の向かないものは理解し得ない、読む必要もない本なのだと決め付けることにした。思想に興味がある人は話題や流行の本をすべて理解しなければならないと思っている人がいるかもしれないが、私はもうそういう読み方はしない。自分の興味のあるものしか入れない。

 思想は知的欲求や知的好奇心を満足させるものだけでよい。知ったからといってどうなるものでもなし、ただ知的満足が得られるものだけでいいと思う。役に立つとか、有益になるとか、そういう目で見る必要ない。知識ってそういうものでいいと思う。

 まあ、たいがいの人にとって思想なんかいらないという前に思想なんか存在しないも同然だと思うから、この本はそういう人には必要ないものだろう。思想なんかムダだと知って、そのまま関係ないと生活するか、役に立たないからぎゃくに楽しめると開き直れたらいいではないかと思う。




 『哈日族』 酒井亨
 光文社新書 2004 700e

 台湾の日本のポップカルチャー好きな若者たちを「ハーリーズ」と呼ぶそうだ。日本のドラマや音楽やファッションが、かつてのアメリカ大衆文化のように東南アジアの人たちのライフスタイルに浸透しようとしている。

 これはわれわれもアメリカ文化で経験済みだから、ある程度はどのようなものかわかると思う。アメリカの何でもかんでもがむしょうにカッコよく、同じモノをもちたいと思うものである。金持ち文化のカッコよさは理不尽に思うことがある。

 日本はアメリカ文化のような存在になり、どの程度アジアの生活に影響を与えてゆくことになるのだろうか。ただ日本にいると東南アジアの人気というがわからないのがふしぎなものである。人間でもそうだろうけど、憧れる人はよく見るけど、憧れられる人にはあまり興味がわかないものなんだろう。




 『山の名前で読み解く日本史』 谷有三
 青春出版社PLAYBOOKS 2002 667e

 山を歩いていたらその土地の民俗なり歴史を知りたくなる。でもなかなかお気に入りの本が見つからないのだな。この本はある程度はおもしろかった。

 とくに「一つ目」と金属伝承のかかわりに興味がひかれた。一つ目の妖怪や神が語られるところには製鉄事業とかかわりのあるところが多いという。炉内を見ているうちに片目がつぶれるからであり、一つ目の伝説は製鉄とのかかわりを匂わせるのである。鉄はやはり日本の権力をかたちづくってきたものである。製鉄は山中でおこなわれており、意外に山奥のほうに権力の源を見つけることができるかもしれないのである。

 山はやはり仏教名が冠されたものが多い。また山は死者の昇るあの世でもあった。山名にはいろいろ人の思いがこめられており、この本を参考に自分で読み解いてみるのも楽しいかもしれない。




 『機会不平等』 斎藤貴男
 文春文庫 2000 638e

 格差や不平等がひろがってゆく社会は恐ろしいことでもあるし、ショックなことでもある。その弊害面はずっと見つづけなければならないと思う。

 ただ私はこの経済のぜんぜん成功者でもないけれど、自由主義や金持ちと階層がひろがってゆく世の中はある程度は受け入れなければならないと思っている。そういう格差や階層がひろがってゆく社会でこそ人はがんばったり、やりがいをもったりすることができるだろうし、みんなが平等になろうとしたらたぶん努力や向上心というものは失われ、憧れや尊敬も生まれないと思うからだ。

 格差ができたらぎゃくに人はおのおのの生活圏だけを守ろうとし、自分の満足を追求し、多くの人が国家や社会の行く末を心配するというある意味異常な社会はなくなると思うし、いまみたいにお金や企業などの一元的な価値基準だけで判断する人も減るだろうと思う。平等社会というのはある意味お金での基準のみに人を縛りつけるということだ。

 また平等な社会をつくろうとすることは国家にお金や権力が集中的に集まる機構をつくることであり、政府がますます人の生活や生き方を決めつける社会になんかなってほしくないと思うだろう。

 以上のことから私は市場原理社会は容認したい方向にあるが、このような姿勢は非エリート層の国家権力に従順な心の涵養を助けるだけだという批判がある。みずから権力に従うような卑屈さがある。でも市井の人間が権力には歯向かうことが、批判を商売にできるマスコミ関係者とちがって、どんなに苦痛と損の多いことになるか考えるべきだと思う。

 格差や階層のゆがみや矛盾をまったく無視してもいいとは思っているわけではもちろんない。この格差がどのような社会をつくってゆくのか警戒していたいとは思う。ただジャーナリズムがよくやるように「被害者根性」だけで世の中を見てほしくない。「被害者」はいつも正義であり、利益であるというのはヘンだ。




 『大坂商人』 武光誠
 ちくま新書 2003 700e

 江戸時代に大阪の商業がにぎわったのは江戸より大阪のほうが海運上好都合だったからだった。太平洋側の海運は困難が多くて、北海道や北陸の物産は大阪に運んでくるほうが有利だった。ために大阪が天下の台所とよばれたのだそうだ。

 さいきん大阪の川辺をめぐっていてむかしの海運の華々しい時代を知りたくなってこの本を購入した。





 『心を商品化する社会』 小沢牧子・中島浩籌
 洋泉社新書 2004 740e

 心理主義化社会に警鐘を鳴らした『心の専門家はいらない』の続刊である。この本のおかげで私もだいぶ心理学というものに批判的に距離をおいてながめられるようになった。

 心理学というのはある程度詐欺師やペテン師と見なす視線はどこかにおいてほしいと思う。科学的といっても心は実体あるものではないから実証もできないものである。いくらても学説や仮説を創作できる代物である。人々のあいだで評価される権威あるものでも常識的な目で判断してほしいし、権威や専門家の意見だからといって盲目に信じるのはやめておいたほうがいい。心理学の学説に出会ったときの違和感や納得できない感じなどは大切に残しておくべきだ。

 心理学者も商売だからマーケットの原理に従って患者数をふやさなければならない。病者の線引きは一方的に専門家にゆだねられている。一億総病人にしないと心理学者は食っていかれない。そういう論理から心理学を捉えてみる視線はとても重要だと思う。自分は病気かもしれないと脅かされて貴重な人生の時間をムダに費やしてほしくないと思う。心理学は恐怖を煽って設ける商売である。自分は病気かもしれないと心配するより、それは心理学者の恐怖を煽る広告戦略かもしれないと疑うことはこれからとても必要だと思う。悪質な商売を警戒するように心理学にも気をつけなければならない。




 『日本の地名』 谷川健一
 岩波新書 1997 740e

 この本はそうはおもしろくなかったが、地名の由来をさぐるのはけっこうおもしろいと思う。歴史や住んでいた人、どのような場所であったかがわかるということは快楽でもあると思う。この本が私にとっておもしろくなかったのは自分の地元のなじみのある地名ではなかったからだろう。やはり自分とつながりのある地元の地名の由来を知りたいのである。




 『風景を創る』 中村良夫
 NHKライブラリー 2004 920e

 風景のここちよさを知的に理解しようとするのはむずかしいと思う。なぜこの風景に魅かれ、ここちよいのか、言葉にするのはむずかしいし、また知ったとしてもそれが風景の魅力を一段と増すというわけでもないし。

 この本は写真や名所図などがふんだんに多用されているから魅力的だが、くさびを打ち込むような魅力はないな。




 『流通列島の誕生』 林玲子+大石慎三郎
 講談社現代新書 1995 631e

 大阪の川をぶらぶらしていたら江戸時代の廻船が行き交った華々しい川の風景を知りたくなった。どうしてこの地は栄えたのか、全国の港のなかでどうしてこの地なのかといったことを知りたかったのだが、この本のさいしょのプロローグのところだけにそういうことが書かれていて、本文のほうはあまり興味を魅かれなかった。地理学のほうに興味がわくんだな。




 『江戸の旅文化』 神埼宣武
 岩波新書 2004 780e

 私はハイキングで関西の山に登ることが多いのだが、これは江戸時代の物見遊山の名所とぴったり重なり合うことを知った。山奥に寺や神社への参詣道も多い。ハイキングとは江戸回帰かもしれない。

 この本は絵や写真が少ないのが残念だが、江戸時代の庶民の姿が知れてまあおもしろかった。

 日本の寺社詣はヨーロッパのように目的一直線でも禁欲的でもなく、寄り道が多く物見遊山をふくみ、禁欲的ではない。参勤交代の道中人員は武士ばかりではなく、宿場ごとに近隣の農村から道中人員があつめられたという。日本の農業は稲作ばかりではなく、畑作も多く、兼業も多くおこなわれて多角経営化されていて、あまり農民とはいいがたい存在であった。

 日本人は江戸時代からずいぶんと旅や物見遊山をたのしんだ貧しいとはいえない人たちだった。伊勢詣など一ヶ月はかかった。現在一ヶ月も旅するスケジュールを空けられる人が働いている人の中でどのくらいいるのか、1ヵ月の旅の費用を捻出する余裕のある人がどれだけいるのか疑問である。寺社詣という名目の制限はあったが、江戸時代の人ははるかに余暇をたのしめたのである。明治の近代国家がはげしく江戸時代を非難して真っ黒にぬりつぶそうとした意味がわかるというものだ。げんざいの近代国家って企業と経済の奴隷に封じ込めようとして、はたして庶民のためになっているのか!




 『恋愛の格差』 村上龍
 幻冬舎文庫 2002 495e

 村上龍がほとんどビジネス書か経済評論家のような本を書いている。べつに経済評論家がいえばいいようなことを書いているが、ふつうの人は専門家の本を敬遠するだろうから、こういう小説家というメジャーな人がこのことを語る意味もあるのだろう。小説を読む人はあまりビジネス書など読まないのだ。

 ひところ経済関係でよく喧伝された終身雇用が崩壊するというのはほんとうかと思うようになってきた。ビジネス書というのは世の中の変化をたいそうおおげさに煽り立てる。そうでないと売れないからだ。でも現実はもとのまま大筋では変わらないと見なすほうが、ふつうの人は堅実に生きられるのではないかと思う。マスコミは変化を大げさに煽情するのが宿命だと理解して、われわれは変化のない社会がふつうだと理解するほうが賢明なのかもしれない。マスコミって宿命的にオオカミ少年なのである。

 この本は「恋愛の格差」というちょっと恐ろしくもあり、社会学的なタイトルに興味引かれて読んだ。そうだよな、恋愛ってそうかんたんではないし、だれでもできるとは限らないし、結婚相手を探すことを恋愛だと勘違いしている場合もあるだろう。恋愛を語っていながら経済のことがより多く語られているということは、じつは恋愛のほんとうの姿をよく表しているのではないかと思う。つまり恋愛や結婚というのは経済関係のことなのである。こういう自覚が、ロマンティックラブ・イデオロギーの幻想に酔うより必要なのかもしれない。




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『機会不平等』 斉藤貴男
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