■040530書評集
『マンガで読む涙の構造』 米沢嘉博
NHK出版 生活人新書 2004 680e
人はお金を払ってでも悲しみを味わおうとする。わざわざ泣ける物語を見ようとする。悲しみや涙が娯楽とはふしぎなものである。
マンガでの悲しみはヒーローが死んだり、主人公のつぎつぎと襲いかかる不幸であったり、少女の学校での友達との関係であったり、貧乏や障害であったりした。この本ではそういう悲しみをいささかカタログ的に読ませてくれる。
『「おたく」の精神史』 大塚英志
講談社現代新書 2004 950e
タイトルの割には自分のことを語りすぎだと思った。「自伝的」とか銘打たなければ、個人的な話を読まされるのは納得できない。
この本で感慨がふくらんだのは、おたくとは「新人類」と対比としての消費者の劣位であるということだ。おたくが軽蔑されたのは消費社会の落ちこぼれだからだ。消費社会に踊られて悦に入るよりマシだろう。でもおたくへの性的な嫌悪感があるのはなぜなんだろう。
『嫉妬の構造』 荻野恒一
現代教養文庫 1983 600e(古本)
個人的に嫉妬のかたまりのような女性と出会ったから読んでみたが、あまり感銘は受けない本だった。
『アメリカは恐怖に踊る』 バリー・グラスナー
草思社 1999 1600e
アメリカについて描かれた本であるが、日本にとってもとても重要な本である。ニュースや広告の社会とは恐怖を煽りつづける社会だからだ。恐怖によって人は新聞を買ったり、商品に魅きつけられたりする。だから消費社会において恐怖はどこまでも煽りつづけられる。この社会で恐怖に感じるものはかなり割り引かなければならない。
新聞や医学や保険などが恐怖を割り増しにしていることにあなたは気づいているだろうか。美容業界やファッションやさまざまなメーカーがあなたの劣位や脱落の恐怖を煽っていることに気づいているだろうか。そうしなければ商品は売れないのである。
だからわれわれは恐怖に感じるものについてはそれを割り引いて捉えなければならない。この社会の恐怖の構造をしっかりと把握しておかなければならない。この社会の情報発信人とは恐怖の商社であり、恐怖のサギ師なのである。恐怖に踊られさている自分たちの姿をつきはなして笑え。
『ポスト・ヒューマン・ボディーズ』 遠藤徹
青弓社 1998 2400e(古本)
『ターミネーター』や『ハウリング』、『巨人の星』などのさまざまな映画やマンガからの引用があるなかなか魅惑的な本である。ただなんの本であるかよくわからない。やっぱり身体について語っているのだろうけど。
いちばん感銘したのは第3章の「鬼婆論」で、女は見世物からある年齢を越えると鑑賞にたえない怪物になってしまうというところである。老婆のビキニ姿は怪物的なものなのである。それに対して男の老化は長老とか古老とか観念に解脱してゆく。なにか女が年をとるということにひじょうに心に残るものがあった。
『足が未来をつくる』 海野弘
洋泉社新書 2004 740e
マクルハーンの視覚優位の話をそのまま下敷きにした本だと思われる。足の復権が唱えられているが、心に響くものはなかった。視覚優位はなかなか超えられないのではないかと思う。
『張方と江戸をんな』 田中優子
洋泉社新書 2004 720e
TVにも出ている田中優子がこんな本を出していいものかと思った。張方とは江戸時代のバイブレータのことで、女がそれを使用している浮世絵が山のように載せられている。ただのエロ本を女性学者が出しているだけのように思える。
なにかの戦略かもしれないが、女性が受身で欲望がないという認識は、女性が経済的にも精神的にも男性に依存しない土台ができたときにしぜんに改まるものだと思う。女性自身でも受身で欲望がないと思われたほうが得している女性もたくさんいるのだ。欲望がなければ責任のない買われる商品のみになる。
『ライク・ア・ヴァージンの幸福論』 ウェンディ・シャリット
WAC 1999 1500e(古本)
性が開放的になったアメリカのありさまを読める本と思ったら、性の保守性を唱える本だった。ひじょうに偏った、偏屈な女性の見解に思えたが、振り子はいつかゆり戻しがくるものかもしれない。
『清福と貪欲の日本史』 百瀬明治
角川oneテーマ21 2003 733e
この本はほのぼの良かった。清福と貪欲の人がさまざまに描かれている。現代は貪欲が肯定される世の中であるが、無欲が肯定されたり賞賛された世の中とはどのような社会だったのか興味がある。でも現代が貪欲を強制されるように、無欲が強制される時代はもっと始末に終えないだろう。無欲に生きる人とはまわりの趨勢に関係なく生きられる人のことをいうのだろう。まあ、私もそんなに無欲に生きる気はないし。
『ホンネで動かす組織論』 大田肇
ちくま新書 2004 680e
たとえば商品の売り上げが好調で連休も返上してフル生産となったら会社は喜ぶだろうが、従業員はせっかく楽しみにしていたレジャーの計画がつぶれてしまうかもしれない。会社と従業員のホンネはものすごくズレている。会社の売り上げが悪くて休みを増やされたら喜ぶ従業員も多いかもしれない。会社というのはもっとホンネで捉えられなければならないのである。
この本ではホンネとタテマエのすれちがいの例がいくつもとりあげられていて、なかなかおもしろいです。低い残業代だからこそやる気をアピールできる、公務員が仕事をしないのは給料が同じなら仕事が増えるのはしんどいし損だから、大学教師は研究で評価されるが学生に人気があるほど負担が大きくなるなど、ホンネとタテマエの乖離がよくわかるようになっている。管理者はホンネを見抜かなければならないということである。
『ゆとり教育から個性浪費社会へ』 岩木秀夫
ちくま新書 2004 720e
未来論がなかなか魅力的だったので読んだが、教育関係はあまりおもしろくなかった。
『働かないって、ワクワクしない?』 アーニー・J・ゼリンスキー
VOICE 2001 1800e
私もまったく働かないことを希求している。でも働かなければメシが食えないのはわかりきったことである。保険や年金のために働きつづけなければならない。また世間一般並みのレベルも維持しなければならない。この心配をクリアできないことには働かない生活を選択することはできないのである。
こういう立場から見るとこの本は働くことの害をちょっと大げさに煽っているような本に見受けられた。もちろん私はこの立場におおいに賛成する者だから共感する部分は多くあった。でもね。
『ケータイをもったサル』 正高信男
中公新書 2003 700e(古本)
売れているようですね。売れているのは地べたに座ったり歩きながら飲食する若者の行動の意味を分析したからだと思う。
著者はそれを「家のなか主義」といっている。家の外まで私的空間と見なせば、家の中のようにくつろげるし、自由に飲食も座ることもできる。つまり公共空間の拒否で、これはひきこもりも共通していてかれらは自分の部屋だけに私的空間をとじこめてしまったわけである。
日本の母子関係は公共空間に出てゆく教育をあまりしないという。私もそうだ。公共空間をかなり苦手とする。学校なんかひきこもりみたいなもので、ほかの年齢の人や外集団とかかわることはほとんどない。公共空間に出る訓練がほとんどできないのだ。いや、社会全体が外集団とかかわることを拒否しているのかもしれない。日本の公共空間をつくるということは重要な課題かもしれない。
『日本全国ローカル線の旅』 真島満秀
講談社カルチャーブックス 1995 1500e
連休の間旅にでも出ようかと思って買ったが、いなかの風景とか見て回ろうかと思ったが、JRの青春18きっぷはゴールデンウィークには売ってなかったので活用されずに終わった。写真はきれいです。
『日本人はなぜいつも「申し訳ない」と思うのか』 長野晃子
草思社 2003 1600e(古本)
そうです。私もいつも人に対して「申し訳ない」と思って生きております。なんででしょうか。
日本人は罪の意識を内面に植え込まれるそうだ。子供のころ、悪いことをすれば、母親にいやな気分になることを教え込まれる。物置や外に放り出される。そうやって自分で自分を罰する罪の意識をやしなってゆく。
幽霊の恐怖も、そういう罪の意識をやしなうのに利用される。お岩さんやむかしの民話の子供の顔が殺した男の顔になったなどの話がそうである。じっさいに良心の呵責にさいなまれて警察に自首する人もいる。罰し手をみずからの内面に刻み込まれるように日本人はしつけられるわけである。
長野はベネディクトの「恥の文化」にたいして日本は罪の文化であり、西洋のように罰し手を神や教会のように外に持つものと違って、治安や秩序の安定にかなり貢献しているとくりかえす。
でも恐怖で人を支配するのって良い方法なのだろうか。恐怖感を刺激されるわれわれは自由に平穏に生きられているのか。イギリスのミルだったら人が殺されることより、個人の心の自由のほうが重要だといった。人間の心の成長には想像でしかない恐怖感を払拭することがとても重要なのだが、すぐ罪の意識を発生させるわれわれの心の回路を断ち切る必要もあるのかもしれない。
『<美少女>の現代史』 ササキバラ・ゴウ
講談社現代新書 2004 700e
魅力的な本である。子供のころまんがやアニメの美少女に萌えてきたわれわれにとっては放っておけない題材である。
吾妻ひでお、『カリオストロの城』のクラリス、ラムちゃん、本宮ひろ志の描く女の子たち、タッチの朝倉南、宮崎駿の描く女の子たち、などなどが本書に登場する。
男たちは70年代前半に国家や会社という大きな物語の崩壊の後、その代入として「美少女」を選んだのである。「国家や会社のために死ねる」が「美少女のために死ねる」となったのである。さらにいえばまんがやアニメ、もしくはTVのアイドルのためにである。しかしこれは転落というか、堕落だな。男たるものもっと大きなものに理想を捧げるべきではないのか。でもかわいい子に魅かれる男の本性というものはどうしようもないが。
女の子がロリコンっぽくかわいくなったのは、それまでのエロ・オヤジ的コードの排斥であったということだ。オヤジのべろべろエロエロ関係から抜け出したかったわけだ。それがロリコン顔として、または女性の内面を性的肉体のみではなく理解しようとしているという意味で女性の顔は幼くなったらしい。でも身体のほうだけはやたらリアルに質感的になってゆくのだが。
まあ、このようなまんがの歴史や変遷を分析した本はかなり待望していたものである。私にとってそのような良い本は宮台真司ほかの『サブカルチャー神話解体』くらいしかなかった。まんがの目が剥くような分析本をぜひとも読みたいものである。
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