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 ■030310書評集
 知識批判(をしたいけれど……)


▼2003/3/10




 『病に医者いらず』 柴田二郎
 小学館文庫 1993 495e(古本)

 専門家批判の一環として読んだ。生命の救済という観点からは、医者は社会的使命を終えているというのが著者の主張である。二十世紀前半までに伝染病などの病気は抗生物質の発明でなくなってしまって、あとは体質や老化によるものだけになってしまった。これらの病気に医者は死と同様、無力なのである。このほかこの本は医者の神話をいろいろひきはがしてくれる目からうろこの本である。医者の存在はもはや失業者対策である。




 『この新書がすごい』 浅羽通明ほか
 洋泉社 2001 720e(古本)

 いま新書はたくさんの出版社から出されていて、安いので私もよく読むし、いつも魅力的な新刊が出ないか期待しているのだか、けっこう食わず嫌いのところがあったりして、このガイドブックを手にとることにした。読みたい本が何冊か見つかればありがたい。

 私はいまはPHPと洋泉社の新書を読むことがいちばん多いかもしれない。PHPは興味が重なることが多く、洋泉社はさいきんけっこうスルドイかなと思う。いぜんは現代思想に強い講談社の新書を好んだ。岩波はぼちぼち、中公は歴史モノが強かったりしてちょっとカタイかなと思う。名著シリーズはありがたかったが。文春や集英社はあまり興味をひくのが出ない。

 いまの新書は入門書や概説書という立場ではなく、けっこう自分で問題を独自に考えているようなので、おもしろいといえるかもしれない。輸入商社ではなく、自分たちの問題を自分たちで考える時代がきたのかもしれない。




 『宗教民俗学への招待』 宮家準
 丸善ライブラリー 1992 660e(古本)

 ハイキングで農村や山村とふれるうちにむかしの日本人の暮らしや考え方に興味をもった。とくに自然崇拝の世界観に興味ひかれる。この本のなかでは「病気の原因と治療」がおもしろかった。病気はタタリやノロイによってひきおこされると考えられたが、その説明体系はちゃんと因果関係でなりたっており、心労や人間関係の改善に役立っていたのである。この説明体系はとてもうまくできていると思うし、さらには現代の病気の説明体系の質も相対化できるのではないかと思う。




 『病気と治療の文化人類学』 波平恵美子
 海鳴社 1984 2060e(古本)

 病気の説明体系というのは「ワル者」や「犯人」を意味づけるものである。宗教では本人のなんらかの罰則のためだと考えられたり、心理学的に原因がもとめれれば懲罰思想になったりする。病気の説明体系というのはその社会の性質があらわになる興味あるものだと思う。それを客観視できるようになれば、いたずらに自分たちの社会の説明体系に脅かされることもないだろう。

 この本は未開社会や伝統社会の病気の意味や信仰、治療をさぐったものだが、いまいち病気の説明体系や因果関係のおもしろさは見つけられなかった。ただ現代の医療は「どのように」に病気になったかは説明してくれるが、「なぜ」病気になったかは答えてくれない、未開社会では双方に応えたというくだりがあり、なるほどと思った。




 『からだことば』 立川昭二
 ハヤカワ文庫 2000 660e

 ことばからからだを読み解くという鋭い本である。われわれはからだことばをどんどん失っている。それにつれてからだの感覚自体も失われてゆく。代わって頭の中の言語や虚構が重要になってゆくばかりである。それらはすべて絵空事である。

 たとえば失われてゆくからだことばは、「骨を折る」「身にしみる」「腰を入れる」「肩身が狭い」「肌を許す」「血わき肉踊る」などあげれば切りがない。からだから感じる実感というものをどんどん失いつつあるのである。からだから感じる実感がとぼしくなれば、生の実感や充実も希薄なものとなり、言葉や頭脳の意味や価値だけが重要になってゆき、人生はどんどん頭の中の絵空事になってゆく。

 からだことばを知るということは、からだの感覚や歴史、文化を「分ける」ことである。からだの感覚を分けることは、そこに込められた文化や歴史の意味を「分かる」ということである。からだに込められた意味が再認識されていろいろおもしろい。




 『知識人の生態』 西部邁
 PHP新書 1996 660e(古本)

 専門家や知識批判の本をさがしていたら意外に少ない。私はある知識があるために人々がどのような弊害や影響を受けたのかを中心に知りたい。ある知識が人々にどのような弊害をもたらしたのかという結果の反省がなければ、知識は無責任なたれ流しになるばかりである。

 知識社会学のように人々は「なぜそう考えるのか」を考える学問はあるが、「ある考え方が人々をどのように変えたか」ということは考えられていない、あるいは反省されていないと思う。西部邁もいっているとおり、知識人は知識を超越する知識を求めなければならないのである。

 この本は数少ない知識人批判の本ということで価値はあると思うのだが、社会学、政治学、認識論といろいろ角度から知識人を切っているのだが、いまいちインパクトが足りない、批判意識はあまり高められなかったのは残念である。




 『学問と「世間」』 阿部謹也
 岩波新書 2001 680e

 学問の本なのか、世間の本なのか、興味が分裂してしまう本である。学問の問題としては知識人は西欧社会の現実と、日本の世間はまるで違うことに気づいていないことは問題だと思う。西欧知識の輸入だけならこの日本の世間で生きることの役に立たない。

 世間が問題にされなければならないものなのか、もうすこしこの人の本を読んでみないとわからない。ただ世間は差別体系として存在し、人々を情動で縛りつけ、変革の見込みのまったくないものだと思われているのは問題である。世間は情理で動いており、理性ではなく、空気のようなもので、つまり獣のような群集なのであり、だから問題なのである。「人権」とか「平等」とかの西欧語は世間ではまるで用をなさないのはだれでも知っていることだ。通じると思っているのは新聞社と学校の教師だけだろう。




 『気流の鳴る音』 真木悠介
 ちくま文庫 1977 400e(古本)

 カスタネダが教えを乞うたドン・ファンの思想を紹介した本であり、「明晰の罠」や「意味への疎外」などの言語・知識批判がスゴイと思う。西欧人にはたぶん考えも及ばない世界だろう。

 「所有や権力、「目的」や「理想」といった、行動をおえたところにあるもの、道ゆきのかなたにあるものに、価値ある証しはあるのではない。今ある生が空虚であるとき、人はこのような「結果」のうちに、行動の「意味」を求めてその生の空虚を充たす」

 「わかるか、人はわしらが生まれたときから、世界はこうこうこういうものだと言いつづける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞという選択の余地はなくなっちまうんだ」

 「履歴を消しちまうことがベストだ。そうすれば他人のわずらわしい考えから自由になれるからな」

 「おまえは生活の意味をさがそうとする。戦士は意味などを問題にしない」「生活はそれ自体として充全だ。みちたりていて、説明など必要とせん」




 『科学者とは何か』 村上陽一郎
 新潮選書 1994 1000e

 科学者は誰に対しても責任を負うことがない。医者や弁護士のように顧客や外部の人に責任を負わないでよいからだ。したがって知識の増加は無条件に善であり、障げるものは無条件に悪になる。「ブレーキのない車」であり、ギアもハンドルもなく、アクセルだけが備わった車だといえるのである。

 「科学者」はいまから百五十年前は数えるほどしかいなく、二百年前は皆無だったそうだ。ガリレオもニュートンも「科学者」とよばれることはなかったのである。

 二十世紀につづく大企業をおこした十九世紀後半の人たち――カーネギー、フォード、エディソン、ディーゼル、ベンツ、ダイムラーといった人たちはひとりとして大学の出身者はいない。かれらの成果は大学の研究の結果でも学校の勉学の結果でもなかったのである。といったことなどがこの本からわかる。




 『頭はよくならない』 小浜逸郎
 洋泉社新書 2003 740e

 そうだな、頭がいいことをみんなほめたたえるが、頭がいいとはどういうことなんだろうな。頭がよくなることはシアワセになることなんだろうか。内容はともかく、問題提起としてはよい本であると思う。

 中身のほうはどうなんだろう、私は頭がよいことがすばらしいとは思っていないから、そんなに共感しないほうだったと思う。知識探究は私は好きだけど、それは頭がよくなることをめざしているのではなくて、たんなるコレクション・マニアに近いものではないかと思っているし。学歴が高いことが優れた人間であるということもかなり懐疑的であるし。

 ただ識字能力と計算能力が高いことは、その個別的な能力だけを示しているのではなく、社会での適応力もかなりのところ象徴しているというのは驚いた。そんなものだろうか。学歴の高い人は適応力が優れていて、そうでない人はそうでないのか。観察してみる甲斐がありそうだ。

 まあ、頭がよい悪いとだれもがひんぱんに口にするが、いったいこれはなんなのだろうなと考えてみる必要もあるなと思う。そんな二つに分けれるほどカンタンな世界に生きているとはとても思えないけど。




 『ニューヨーク知識人』 堀邦維
 彩流社 2000 2800e(古本)

 知識批判の本を探していてもなかなか見つからないので、アメリカの三%に満たないユダヤ人から有力な知識人が多数あらわれたのはなぜかを考えたこの本をとりあえず手にとった。

 まあユダヤ人はいつも異邦人にならざるをえないから社会を客観的に見れるし、都市生活に先駆的になじんでいたからだそうだ。

 ニューヨーク知識人はなぜ大衆文化を嫌うのか。ユダヤ人にはスターリン主義やホロコーストなどで大衆への恐れ、トラウマをもっているからだという。制御できない大衆ほど恐ろしいものはないことを身をもってかれらは経験した。亡命ユダヤ人であるフロムやアレントが大衆批判をおこなった理由がよくわかるというものだ。しかし大衆文化を理解しない知識人はこんにちの社会では離反してゆくばかりだが。

 まあこの本はユダヤ人たちが知識人としてうけいれはじめ、大学機関などに属するようになり、批判精神を失って体制化し、息子の世代から批判されるようになる歴史をあつかっている。批判して当の権力者になって批判される、というのは人生のパターンなのだろうな。




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