020504書評集
▼02/5/4更新
『古代日本人・心の宇宙』 中西進 NHKライブラリー 1994 920e
日本人の霊魂観とか神観念とかをさぐろうと思って手にとったが、私はやむにやまれぬ個人的事情にわずらわされていたためにあまり頭にのこらなかった。
『聖地の想像力』 植島啓司 集英社新書 2000 680e
なぜ聖地は聖地なんだろうか。聖地を聖地たらしめる神性や聖性とはいったいなんだろうか。神社や寺にはなにがあるんだろうか。この本では聖地の定義づけがおこなわれているが、それでもわからない。
この本でいちばん記憶にのこしておきたいことは、古来の人はなぜ石をまつってきたかというと、地球の大地とか海の水はぜんぶ石から出ており、生命もこの元素からできており、石は万物の根元にあるからということである。
『聖なる大地』 ブライアン・リー・モリノー 創元社 1995 1800e
人はこの地球上に神秘性や聖なるものを感じてきた。絶景や奇勝のなかに神や精霊をみいだしてきた。そういった自然を崇拝するコスモロジーというのは、現代の無機質化した世界観より数段魅力的である。私はそういった古来の人たちの聖なるコスモロジーとつながりたいと思うようになった。この本のカラー写真はとてもきれいである。
『日本宗教とは何か』 久保田展弘 新潮選書 1994 1200e
場所からその聖性や神性を読みときたい。私は大阪や奈良、和歌山の山々をハイキングでのぼっているうちにそういう気もちになってきた。なんでこんなところに寺が、神社が、神がまつられているのかという思いに再三とらわれたからだ。しかも私にはその意味がまったくわからない。なぜその場所なのかーッ。ダーッ(?)。
この本では奈良や吉野山、比叡山などが語られているから、ちょうどいい。どうも山というのは水源地があり、それが聖域として祭られ、また祖霊の昇るあの世のあるところでもあったから、聖性や神性を付与されていったというわけだそうだ。
『「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない』 デビー・フォード NHK出版 1998 1600e
「嫌いな他人とは自分自身のことである」――このことを自覚するのはむずかしい。他人と自分はまったく別物と思うからだ。しかしなぜ他人の嫌いなところが感情的にひっかかるのだろう。それはその嫌いな部分が自分自身にあることを認めたくないからである。
これはユング心理学でいう「影の部分」である。自分の嫌いなところを自分から隠そうとすると、他人に見つけてしまうのである。そうして人は自分の嫌悪感を排斥したいばかりにずっと影の部分と無益な闘いをおこなうことになる。
この影の部分のとりもどしは前からの私のテーマだった。でもなかなかよくわからないのである。それでこの本が出ることになって、よりいっそうの理解を深めることができるようになったと思う。
たぶん認識の失敗があるのだと思う。心の中には自分も他人もない。ただひとつの心があるだけである。しかし人はそのひとつの心を自分と他人に分けてしまう。気に食わない部分、あったら困る部分は都合よくぜんぶ他人に与えてしまう。しかしその捨てた部分はオバケのように他人の姿にあらわれ、ずっと自分の嫌な部分と闘いつづけるというわけである。オバケが消えるのはそれが自分だと、自分の心だと、わかったときである。
なおこの本では悪い部分の投影だけではなく、よい部分も投影されていることを教えてくれる。あなたがある人に偉大さを見るとするのなら、それは自分自身の偉大さである、つまり影の部分であるということである。影は善悪両面で成長のためのきっかけを与えてくれるのである。
『仏教信仰の原点』 山折哲雄 講談社学術文庫 1986 800e
日本人の霊魂観について知りたいと思っていたのだが、これまで読んだ本はどうもなにか物足りない感がしていたのだが、その足りない部分は怨霊と崇りであることにこの本によって気づいた。
死者は霊魂となって山に昇るだけではなく、供養しなければ祟ったり災厄をもたらすと信じられていた。そこに仏教の加持祈祷などが必要となるわけだが、仏教がこういうおどろおどろしい怨霊や崇りと関わりがあったなんて、私には意外だった。しかしこれがなかったら仏教は躍進することもなかったのだから、仏教は怨霊サマサマだな。
『平安京の怨霊伝説』 中江克己 祥伝社黄金文庫 2000 552怨(古本)
平安京の天皇や貴族たちはもののけや怨霊に脅えきっていた。なんなのだろうな、この世界観は。いまでいったら、政治家や知識人たちの天下人が心霊写真や怨霊のために右往左往するようなものである。
怨霊の話には教訓が含まれているばあいもあるし、道徳律がくみこまれているばあいもあるし、陰陽師たちや仏教僧たちは大躍進し、出世や儲け話を手に入れることができ、また政敵たちはライバルを陰謀におとしいれることもできた。怨みが肥大化し、擬人化し、専門家に頼るほどまでに手をつけられなくなっていたのである。怨の時代だな。
『常世論』 谷川健一 講談社学術文庫 1983 800e(古本)
日本人は海の彼方にも常世――死者の霊魂のゆくところを思い描いていた。渚はこの世とあの世の境界であり、鵜は海底に通じていることから死者の使いと思われ、常世は竜宮であり、そこは日本人の祖先が暑い国からやってきた記憶の道筋であるということである。
『憑霊信仰論』 小松和彦 講談社学術文庫 1982 980e(古本)
なるほど、憑きものというのは成り上がりものにたいする社会的制裁であったというわけである。むかしの人はある者が富を多く得れば、ほかの者が失っている、奪いとられたとかんがえたそうだ。また山姥の出現というのはタブーを破った者にたいしての神秘的制裁であったということである。むかしの人は憑きものやもののけに多くの心の要素をたくみに詰め込んだんだな。
『霊魂観の系譜』 桜井徳太郎 講談社学術文庫 1989 960e
霊魂は四十九日忌までは家の屋根にとどまると考えられており、死後の霊魂はまだエネルギーがありあまっており、どんな災厄をもたらすかわからない。周りの者は戦々恐々である。変死者や事故死者は障りや崇りのみか、死の世界に道連れにされるととくに恐れられた。
三十三年忌、五十年の弔い上げを最後に霊魂は祖霊化し、死霊から神へとなる。この期限は、災厄をもたらさずにできるだけ早く清まってあの世にいってほしいと思う縁者と、百年いやそれ以上にのばしたいと考える仏教側との妥協案でうまれたという。
私は何年忌という言葉はきいたことはあるが、それが霊魂の鎮まり清まる時期のことだとはまるで知らなかった。死者の霊魂信仰は、おそらくは霊魂を信じない現代の人においても、たとえ形式だけとしても根強く生き残っているようである。こういう本を読むまでそのことを私は知らなかったということは、伝承がまったく継承されていないということである。
『脳とテレパシー』 濱野恵一 KAWADE夢新書 1996 667e(古本)
どこかに書かれていることばかり寄せ集められており、なにも知らない人向き。
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