2000年冬の書評集
ほか
▼2000/12/19更新分へ
▼2000/11/25更新
猪口邦子『戦争と平和』 東京大学出版会 89/5. 2266e(古本)
戦争について知りたかったことは「国家と戦争」の章にあますことなく述べられている。すなわち民主制と戦争の因果関係だ。民主制というのは、国民全員を平等に、かつ自主的に戦争に駆り立てるためのなくてはならない仕組みなのである。これを無視して、民主制や平等のどこがすばらしいといえるのか?
あと「戦争サイクル」の章もとてもおもしろかった。コンドラチェフの波がピークを迎えるころ大きな戦争がおこるらしいのだ。鉄道が普及した1860年代には米南北戦争、自動車、電気が景気をおしあげた1910年代には一次世界大戦といったように。経済がよくなるときこそ戦争に気をつなければならない。
星野道夫『アラスカ 風のような物語』 小学館文庫 91. 800e
こういう自然の写真集とエッセイ集というのはとても好きだ。壮大な自然の写真と文章が織り交ざって、広大な自然に浸れるような気分になる。やっぱり写真という目に見えるものがないと、行ったこともない遠い世界の文章はそのリアルさを醸し出せないと思う。
アラスカの自然に身をおくことで、都会では感じられない人間の生の営みが浮き彫りにされている。自然写真家の人生っていいなあと思う。大自然に囲まれて、漂泊と自由な日々を過ごせるのである。でも都会と会社の生活から見るとそう思えるだけであって、じっさいは自然の牙は恐ろしいものであるし、この写真家はヒグマに襲われて逝去しているのである。
星野道夫『イニュニック[生命] アラスカの原野を旅する』 新潮文庫 93/12. 438e
アラスカの大自然の前では、都会や文明社会といった日常社会に暮らしていたらとても感じられない自然や生命、人々の生き方といったものが、むきだしにされる。なんだかこの本に描かれたちょっとしたことでも、ささいなことでも、壮大な自然のドラマを感じさせるんだな。マイナス40度の厳しいアラスカの世界では、だからこそ生命の危うさやいとおしさが感じられるのである。
星野道夫『ノーザンライツ』 新潮文庫 97/7. 667e
この本ではおもにアラスカのフロンティアの時代が描かれている。アラスカでは一攫千金とか新しい土地と生活といった話はそんな遠い世界のことではないのだ。そんな自然の原野を駆け抜けた動物学者や、文明化の波におしつぶされそうなエスキモーやインディアンの人たち、白人のエスキモーなどが描かれている。
篠沢秀夫『愛国心の探求』 文春新書 99/11. 710e
国民国家の歴史や論理とはどんなものだろうか、と客観分析だけを期待してガマンして読んだが、私は「国家」という、どこにも存在しない「想像」と「空想」の産物に愛を捧げる気なんか毛頭ない。イヤな本だった。
野田知佑『旅へ 新・放浪記1』 文春文庫 95/10. 600e
『南へ 新・放浪記2』 文春文庫 95/10. 600e
『旅へ』はバックパッカーやフリーター、プータローとして生きる人たちの「バイブル」になりえる本だと思う。カヌーイスト野田知佑の自伝的著作である。就職を拒んだ野田青年の憤りやみじめさが現われていて、私としてはとてつもなく共感し、感動した著作である。
「大人たちはたいていぼくの顔を見ると、「早く就職してマジメになれ」と説教した。馬鹿メ、とぼくは心から彼らを軽蔑した。マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張っているのではないか。不マジメならいい加減に妥協してとっくにそのあたりの会社に就職している」
「あの下らない、愚かしい大人たちのいう「人生」とかいうものに食われて堪るか。俺はあいつらのすすめる退屈な、どんよりと淀んだ人生には決して入らないぞ。そんな反抗心だけが唯一の支えである。――あの俗世にまみれた、手垢だらけの志の低い輩ども。俺を非難し、白い目で見、得意な顔をして説教を垂れた馬鹿な大人たち。俺はただ「自由」でいたかっただけなのだ」
「ヨーロッパはいいぜ。あそこは大人の国だから、君がどんな生き方をしても、文句はいわない」 日本で会ったアメリカのヒッピーの青年がいった言葉が、外国に出るきっかけになったのだ」
「北欧の人たちは「青年期とは滅茶苦茶な、狂乱の時期である」ことを判っているようだった。――「俺も若い時に世界を放浪したよ。そうやってもがいているうちに自分にぴったりの穴の中に落ちつくものだ。グッドラック」
阿川弘之 猪瀬直樹他『二十世紀 日本の戦争』 文春新書 00/7. 660e
私が戦争について興味があるのは民主制との関係とか経済システムとの関わり、社会学的な原因論あたりなので、参考程度に読んだ本で、感銘はなし。
竹内靖雄『国家と神の資本論』 講談社 95/1. 1800e(古本)
国家とは「世俗化された神」である。その神格化された国家の姿を、いつものこの人独特の切り口でみごとに脱=神格化してくれる。たとえば国家の形態を、社員が無限責任をおう合名会社型の国家とか、株式会社型国家とかに分けたりとか。
市場経済が国家にとってかわる社会を考えているが、国民総動員体制を義務とする国民国家がもしなくなるとするのなら、私もそういうシステムのほうがいいように思う。
ロジェ・カイヨワ『戦争論 われわれの内にひそむ女神ベローナ』 法政大学出版局 りぶらりあ選書 1963. 2987e
貴族の戦争というのは作法を重んじ、流血の少ない、遊戯あるいは儀式のようなものだった。そして王や貴族だけの限定されたものだった。貴族は新しく生まれてきた銃砲や歩兵を嫌悪していた。際限のない戦争は民主制社会で行なわれるのだということを予感していたのである。
はたして国民のすべてが平等になり、参政権を得たとき、戦争は仮借なき血なまぐさいものになり、国民総動員の戦争になり、そして大量殺戮の目を覆わんばかりのものになった。
カイヨワはこの大量殺戮戦と平等と民主制との関係を強く意識していたようだ。「民主主義は、戦争そのもののために、また戦争の準備のために、国民の一人びとりにたいして金と労働と血を要求する」のである。
もし以前のように不平等が法制化されれば、中世の戦争のように犠牲の少ないものになる。平等と大量殺戮のジレンマをわれわれは解決することができるのだろうか。平等や民主制がすばらしい制度などとバカみたいに喜んでなんかいられない。
ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』 ハヤカワ文庫 66. 760e
多くの人が感動したベストセラーのようなので、前から読んでみたかったのだが、遅まきながらやっと読みました。たしかに最後の知能が衰えてゆくあたりはかわいそうな話だったが、みんなが絶賛する理由はピンとこないというのがホンネだ。
愛読者が主人公に自分を重ねるのは、学校で知性の実験動物のような目に遭っているからなのか、頭の悪さを嘆かれたりバカにされたりする気持ちがわかるからなのか、それとも知性が世の中の不幸を知らしめたり、性格の悪さをつけたしてゆくと感じているからなのか、あるいはこれが人生の盛衰や生涯を象徴しているからなのだろうか。
瀬古浩爾『わたしを認めよ!』 洋泉社新書 00/11. 680e
フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を読んで以来、認知欲望というものが人間のいちばん根源的な欲望だと思っている。この欲望を理解しないで、人間が理解できるわけなどない。
著者によれば、70年代前半までは家族、性、社会による古典的な承認の時代であり、後半から自己、セックス、金による承認が特権化してきて、90年代にはそれが劣位になり、他人の承認なんかどうでもいい、自分は自分が承認するだけでいいという「反承認」に代わってきたという。
自分に承認されたい、世界に承認されたいという欲望のゆきつく先は、メディアによって「見られる者」になり、世界やおおぜいの者から承認された自分を見ることである。そうでないと飢餓感は去らず、不全感は癒せないのである。
承認欲望の根本は存在の二重性からおこっていると著者は鋭く指摘している。他人にとって自分は無意味で無価値の存在かもしれないが、自分にとってはただひとつのかけがえのない存在である。この根源的不安が、他者への承認というかたちをとるのだ。
私自身も自らの中に強い承認欲望を認める。しかしこの承認欲のトゲは抜き去りたいと思っている。叶うわけなどないのだ。仏教や老荘では自ら劣位や愚鈍になるといった「脱=優越」と「脱=比較」の方法を呈示しているが、自分のそれを根底から抜き去ることは自我の崩壊に等しい恐れを抱いてしまう。いったいどうしてなんだろう……。
ユン・チアン『ワイルド・スワン 上中下』 講談社文庫 91. 各762e
軽い気持ちで中国の親子三代の話と思って読みはじめたが、最後まで読まなければ気がすまなくなるほどひきこまれた。ノンフィクションだから、文章を読みながらじっさいの写真像をなんども見比べたりもした。読んでいる途中、読み終えたあと、呆然となってしまって、頭がこの話からひきはなせないほどだった。
なにがスゴかったのか。どんな人もこの人はどんな運命をたどるのだろうとひきつけられる展開なのだろうか。あるいは親から聞いた話をまるで自分が経験したかのように鮮やかに語る手腕なのだろうか。
歴史に翻弄され、牙をむくのは、順調に出世していたかに見えた両親が文化大革命によって迫害され、労働キャンプにおくられるあたりからである。これはほんとうにかわいそうだった。そしてありとあらゆる人たちが迫害され、批判され、暴力をうけた文化大革命という異常な時代を、いまの中国人はすべて経験しているのだと思うと、なんだかその経験の重さと残忍な過去を思わずにはいられない。
中国というのは歴史大河ロマンが似合う。この激動ぶりは社会主義制度によるものなのか、それとも中国という大地と歴史によるものだろうか。
恩田陸『光の帝国 常野物語』 集英社文庫 97/10. 495e
暗記力が優れていたり、過去や遠くの出来事を知る力がある一族が権力への志向をもたずにひっそりと暮らしているというあらすじから読みたくなったのだが、ちょっと物語の深みとか文章の重みとかが感じられなくて、魅きつける力があらすじにあるのに残念だと思った。
こういう超能力があるのに隠しているという物語に私は魅かれてきたように思う。『猿の惑星』でも主人公は知性を隠していたし、好きではないが『裸の大将放浪記』や『水戸黄門』のラストにもそういうどんでん返しがあった。
優越性を隠す知性、あるいは道徳性?というものに魅かれるのか。いいや、才能も知性もない者がじっさいはあるのだと夢想したいがための慰めかもしれない。
歴史の謎研究会『世界遺産 41の自然の神秘』 青春文庫 00/8. 524e
やっぱりこれは大きなカラー写真で見たい。
ノーマン・マクリーン『マクリーンの川』 集英社文庫 76. 571e
アメリカ自然文学の傑作ということで読んでみたが、さしたる感興はない。
マルロ・モーガン『ミュータント・メッセージ』 角川文庫 91. 533e(古本)
アボリジニはエライ、アボリジニの知恵に学べという教条的な姿勢はちょっと。。。
パウロ・コエーリョ『アルケミスト』 角川文庫 88. 520e
前半のパン屋やクリスタル商人として土地に縛られて生きる生き方と、少年の旅や夢に憧れる生き方の対比がとてもよかった。クリスタル商人はメッカを憧れながら、メッカには一度もいったことがない。
「メッカのことを思うことが、わしを生きながらえさせてくれるからさ。そのおかげでわしは、まったく毎日同じ毎日をくり返していられるのだよ。…わしはな、砂漠を横切ってあの聖なる石の広場に着いて、その石にさわる前に七回もそのまわりをぐるぐるとまわるようすを、もう千回も想像したよ。…でも実現したら、それが自分をがっかりさせるんじゃないかと心配なんだ」――この言葉を読んだときには泣けた。
さいごは「幸福の青い鳥」のように宝物は自分の足元にあったようである。
野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか 「混沌の歴史」のはじまり』 PHP新書 00/12. 660e
「職業中心の人生観の崩壊」の章はよかった。これまでは職業人として勤勉に働くことが人生の義務であり意義であったのだが、二十一世紀には職業に専心できない投機性と偶然性の強い時代がやってくるという。
パートタイマーやその日暮らしで暮らさざるを得ない大半の人は、勤勉や忍耐が徳目でなくなり、日常を楽しむ日常倫理が必要になってくる。これが私たちに根本的な人生観の転換をもたらすことになるかもしれないと著書はいう。
職業以外の生きがいを求めるという価値観で、私はおおいに「新しい中世」を歓迎したい。「職業だけが人生だ」みたいな人生観は早く消え去ってほしい。後半に親鸞の教えが紹介されているが、その必要性は私にはよくわからなかった。
淡野史良『人間らしく生きるなら江戸庶民の知恵に学べ』 KAWADE夢新書 00/1. 667e
江戸っ子は「宵越しのゼニはもたねぇ」とその日暮らしの生き方を楽しむことができたから、おおいにウラヤマシイ。現代人は将来や老後の計画表と予定表で一歩たりとも微動だにすることもできない。こんな重荷をすっかりととり払った江戸っ子には学ぶことがたくさんある。
小山和『古道紀行 大和路』 保育社 94/7. 1800e
ハイキングで山に登っていると、いろんな歴史名所とか疑問にぶちあたる。奈良の三輪山の大神神社の荘厳な雰囲気はなんでだろうとか、葛城山ふもとの高天彦神社はあの天地創造の神話の地ではないのかとか、柳生街道の盆地の田園風景のここちよさはなんでだろうかとか、山村の人々の暮らしはどんなものなんだろうかとか、興味や好奇心がそこはかと湧いてくる。
ハイキングや山々の自然や歴史を楽しむひとつの方法として、古道の歴史を学んでみた。私としては古代の天皇や将軍がどうのこうのというよりか、もっと民衆の生きざまや山々に囲まれて生きるということはどういうことか、かれらにとって山々や環境とはなんだろうかということを知りたいのではないかと思う。
リテレール編集部『ことし読む本 いち押しガイド2001』 メタローグ 00/12. 1500e
本のための本はいろいろ参考になる。人が本に関してどう思っているか、どのあたりのことを問題にしているのか、なにに問題を感じているのかなどなど。一冊で完結した本ばかり読んでいたら、そういうあたりの情報系が弧絶してしまう。ただそのあたりの情報の価値は私にとっては強いようで弱いようでどちらともつかず、なかなかこういう本は購入することはなかった。本について人はどう思っているか、情報の不足を補うことも必要だ。
高木重俊・石嘉福『名勝 唐詩選[上]』 NHKブックス 96/6. 1165e
自然を楽しむには唐詩を読むのなんかいいだろう。この本には写真がついている。ただ私はさいきん地元の関西の自然に愛着を感じるようになってきたので、どうも感興が。。。
佐野山寛太『現代広告の読み方』 文春新書 00/4. 690e(古本)
広告やメディアを徹底的に批判的に読み込んだような本を読みたい。広告やメディアに踊らされる愚かな自分にはなりたくない。でもそういう本ってあまり見かけないんだな。この本は手にとりやすい新書ということで読んだ。ソフトで、目からうろこが落ちるような批判的な書というわけではないが、広告を分析することは現代人の必須条件だろう。踊らされ、操られているのに、広告消費によってカッコいいなんて思っている自分になんかはなりたくない。
松原隆一郎『消費資本主義のゆくえ――コンビニから見た日本経済』 ちくま新書 00/9. 660e
消費社会論なんて読まなくなっていた。消費によってカッコよくなるなんて幻想はバブルとともにとっくに捨ててしまったからだ。だから興味が湧かなかった。
この本は新書で出たということと、90年代以降の消費分析をやっているということで、久しぶりに手にとってみる気になった。消費社会の五つの類型や戦後日本の消費の歴史などのまとめをやっていて、頭を整理しやすかった。
門脇禎二『葛城と古代国家』 講談社学術文庫 84/9. 820e
葛城古道は歴史をなにも知らないで、ハイキングコースとしていったことがある。高天ヶ原では「おお、ここが日本神話の誕生の地ではないか」と感銘したが、こんなへんぴな地になぜ日本がはじまったのか、かなり不明なところが残った。その補足としてこの本を読んだ。天皇なり豪族なりがいろいろ入り乱れてケンケンガクガク、私としてはなぜこの地から日本がはじまったのかという説明がほしかった。
近田春夫『考えるヒット』 文春文庫 98/4. 514e
Jポップ批評というのはむずかしいと思う。個人的に好き嫌いで満足していた音楽を、文章やコピーライトにして普遍性や共通性を獲得するのはかんたんではない。私としては社会学的な分析がぜひともほしかったが、そういうことに関しては満足できた本ではない。さいごのほうはもう読み捨てるような読み方になった。
ご意見ご感想お待ちしております! ues@leo.interq.or.jp
2000年秋の書評集「性愛市場―総力戦」
|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|
|