2000年夏の書評
ほか
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2000/4/26更新
小此木啓吾『秘密の心理』 講談社現代新書 86/4. 550e
なぜ小此木啓吾が秘密について考えているのかなと思ったけど、秘密や隠し事をもつということは自己意識をうみだしたり、自己と他者の境界線、延長して内輪とよそ者の境界線をひく役割をもつ、かなり重要なものであるということがこの本によってわかった。
また自己の確立ができないと、自分の考えやにおい、不安などがもれてしまうという「自我境界喪失」におちいるそうである。だから隠しておく限り他人には知られないという確信をもつことが必要であり、自己の確立もそれによってできあがるということだ。
この本を読んでがぜん秘密や隠すということに興味をもった。人間はさまざまなものを隠している。隠すことによって快楽や陶酔が生まれている場合もあるし、原初には世界に区切りや境界を設けるはたらきをなしたかもしれないのだ。
隠すことと羞恥というのは後天的で人工的なものかもしれない。それをめぐって人は暴露と隠蔽というとりひきやゲームに快楽や熱中を生み出すことになる。ううむ、たしかに「秘密」「隠す」ということは深い。根源的なものだ。
坂本俊生『プライバシーのドラマトゥルギー フィクション・秘密・個人の神話』 世界思想社 99/10 2200e
小此木啓吾の『秘密の心理』を読んで「隠す」ということに興味をもってこの本を読んだ。隠すということは自己の境界をつくり、内輪とよそ者の区別を生み出す原初であるからだ。
隠すことはそこになにもなくても、空っぽであったとしても価値を高める。「秘する花を知る事。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と世阿弥はいっている。
伝統社会が揺らぐなか、個人は自己の不確実性に悩むことになった。人々は自己の解明に向かったが、それは自己の真実は隠されている、秘密であるという側面も生み出した。自己を安定させるためには自己は隠されなければならなくなったのである。
19世紀に自己の内面がもれる、読みとられるという怖れが出てきた。これは私秘化とパラレルである。自己の安定と自己創造の起源を隠蔽しなければならなくなった個人は、同時に秘密がもれる怖れももつことになったのである。
隠すということは自己や境界をつくりだすかなり根源的なことと関わっているようである。近代的自己はここから生まれた。でもその中身は空っぽなのだろう。恥や怖れ、プライバシーの感情がその空っぽさを喰いとめているのだろう、なにもないものを。
向坂寛『恥の構造』 講談社現代新書 82/6. 420e(古本)
この本ではベネディクトの「恥の文化」やギリシアの恥が語られていて、わたしが知りたいこと、恥が社会規範としてどのように制御されているかといったこととテーマが違っていたので、ほとんど興味をもてなかった。
島崎俊樹『感情の世界』 岩波新書 52/5. 550e(古本)
そんなには興味をひかれなかったが、感情社会学の本が少ないということで参考ていどにこの本を読んだだけである。
この本はいまでは書店では見かけないが、出版40年のあいだに52刷もおこなわれたベストセラーだったみたいである。感情や情緒が書かれた本は少ないからかな。
鷲田清一『じぶん…この不思議な存在』 講談社現代新書 96/7. 631e
隠すということと自己の境界に興味をもっていたのだが、自他の境界についての本はなかなか見当たらず、「私とは何か」という問題にテーマがズレざるを得なかった。
しかし私とは何かという問いはむつかしいものである。あまりにも漠然としていて、どのような問いを立ててよいか自体すらわからなくなる。この本はそういう問いを限定しないで自分について語っているのかな。
私というのは「私が誰でないか」という排他や差別でなりたっている。私は汚らしいものやべつの私になる可能性をふり捨てて「私」になってゆく。社会の役割や意味体系に「憑かれた」存在になってゆくのである。
いまの「私探し」やモラトリアムはそういった社会の意味体系の反発心が根底にあったり、役割自己の窮屈さがあるからなのだろう。
浜田寿美男『「私」とは何か ことばと身体の出会い』 講談社選書メチエ 99/11. 1800e
「私とは何か」というテーマは新書あたりでたくさんあると思っていたのが、意外にそういう本は少ない。といってもどんな知識も、たとえば宇宙の起源や古生物学、歴史といったものも私について問うているといえなくもない。対象への関心のありかたは同時に自分自身への関心のありかたでもあるからだ。
ということで少々値が張るし、あまり興味はありそうにもなかったが、私を問うていることでこの本を読んだ。自他の境界に興味をもっていたのでやはり発達論的なこの本にはあまりインパクトをうけていない。
それでも図と地の関係、意味世界の敷き写し、羞恥と内なる他者などはなかなか興味をひかれた。
酒井健『バタイユ入門』 ちくま新書 96/9. 660e
隠蔽や禁止、侵犯といえば、バタイユである。社会は隠蔽や禁止でなりたっているという視点は健全で健康的な人間観を見事に覆す。
でもバタイユの本は全集で高かったり、難解そうで理解できるかなという思いもあるし、文庫などで出ている本もとっつきにくい。ということでこの入門書を読んだ。
バタイユの思想を紹介するというよりか、生涯を追っている本なので隠蔽や禁止についてあまり学ぶところはなかった。
見田宗介・木村敏ほか『自我・主体・アイデンティティ』 岩波書店 岩波講座 現代社会学2 95/12 2700e
自我とは何かという本も驚くほど少ない。仕方がないからこんな高い本を読むしかないじゃないか。まあ心理学の自我論より社会学の自我論もおもしろいかもしれない。
この本では社会学だけではなく、精神病理学の木村敏、宗教哲学の上田閑照、文芸評論の三浦雅士などの自我論も含まれるのが期待できるところだ。
私としては浅野智彦の『近代自我の系譜学――ピューリタリズム・スノビズム・ダンディズム』と社会学の自我の捉え方を紹介した船津衛『自我の社会学』がよかった。
岩田慶治『<わたし>とは何だろう』 講談社現代新書 96/9. 650e
アニミズムなどを研究している著者のことだから自己からの解放についてなんらかの知識を与えてくれると思ったのだが、実験的試みのためかなんのこっちゃかさっぱりわかりまへん。
鷲田清一『悲鳴をあげる身体』 PHP新書 98/11. 657e
鷲田清一という人は労働論やモード論などをいろいろ語っていて、身体論が私のなかではうまくつながらなかった。現象学やメルロ=ポンティとかをやっていたからその関係か。それにしても現象学の身体論や知覚論はほんと難解で理解できねかった。
この本はそんな難しい言葉で語った身体論ではなく、からだの経験の不思議さを語っていてひじょうに参考になった。
身体を意識するというのは調子が悪いとき、私の表面は杖や靴の感覚によって変わりうること、自分のからだのたいていは見えないこと、汗やつばなど私の境界を揺るがすものは汚いものとして拒絶されること、随意にならない身体を所有によって代替していることなど、さまざまな身体経験の不思議さに目を開かせてくれたことはとてもありがたい。
身体でいちばん問題なのは観念でがちがちになっていることだ。医者や専門家の知識、そして自分の身体を観念や所有によって遠ざけてしまうこと、これによってわれわれは直の身体経験と世界経験を忘れてしまったのかもしれない。
▼2000/5/16更新
香山リカ『<じぶん>を愛するということ 私探しと自己愛』 講談社現代新書 99/6. 660e
90年代からのさまざまな「私探しブーム」や「心理学ブーム」を探った本で、これらの一連の流れはどういうつながりにあるのかと説明してくれてなるほどなと思った。
ただやっぱりすべてを心理学に還元するのは問題だと思うし、「私探し」には商業主義やコマーシャズムの力がおおいにあずかっているという視点をあまりとりあげていないし、マスコミにとりあげられた現象を大げさに捉え過ぎている点はちょっとハナについたな。
別宮貞徳『「あそび」の哲学』 講談社学術文庫 74/10. 680e(古本)
エピクロスとかストア哲学の「アタラクシア(心の平静)」がとりあげられていたので読んだ。
この本ではレジャーの画一性が批判されているが、わたしも80年代はこういうことにいらだっていたが、その批判には先進性や優越心がのぞいていることが感じられた。
榎本博明『<私>の心理学的探究 物語としての自己の視点から』 有斐閣 99/9. 1600e
私とは何か。私とは「物語」であると捉えた視点はとてもよかった。いま目にみえる身体や光景、地位や役割、特徴をいくら並べたところで私は見えてこないからだ。
この本では記憶や想起がどんなにゆがめられているか、過去の想起は現在の視点であるといったことがのべられていて、驚きとともにひじょうに参考になった。
著者は自分は物語であるから危機のさいにはその書き替えができる、カウンセリングとして役に立つというようなことをいっていたが、「私」というのは「虚構」であるという認識とすれすれのところにいるのだが、そういう方面には進もうとしないみたいである。
私は、自己や過去とは「虚構の物語」である、だからその「実体化」をやめて「捨ててもよい」という読み方ばかりしていた。
谷沢永一『人間通と世間通 古典の英知は今も輝く』 文春文庫 81/9. 495e
イソップ寓話、シェイクスピア、ドストエフスキー、ロレンス、モーム、などがとりあげられていて、自尊心とか優越心とかのべられていたから読んだけど、まあそれなりに。
土居健郎『表と裏』 弘文堂 85/3. 1000e(古本)
秘密がうみだす自己の境界というのに興味をもっていたので読んだのだが、それだけ。
上田閑照『私とは何か』 岩波新書 2000/4. 660e
上田閑照という人は前も『禅仏教』とかいう本を読んだことがあるのだけど、なんかなにを言おうとしているのか難解でよくわからなく、今回もほぼ同じ陥穽におちいった。残念ながら理解できないものは記憶にのこらなく、わたしにとっては読んでもムダということになる。
まあいくつか感銘したところもあるのだが、「我」が打破されたとき物理的な衝撃となって現れるといったことや、山を見ているとき「私」が見ているのか、「色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」というところは銘記しておきたいところだ。
坂本賢三『「分ける」こと 「分かる」こと 新しい認識論と分類学』 講談社現代新書 82/4. 420e(古本)
「分かる」というのは「分ける」ことである。わたしは分ける前の本来の姿に興味があるのだが、この本では分けた世界に興味があるみたいである。
伊藤勝彦『天地有情の哲学 大森荘蔵と森有正』 ちくま学芸文庫 00/4. 900e
主客二元論を仏教ではなく、哲学で超えてゆこうとするこのような本を私は探していた。
世界は感情的であり、世界と私は地続きに接続し、間を阻むものは何もないといったことや、過去は反復強迫として現在に襲いかかってくるなど、大森荘蔵と森有正の説が検討されている。
世界は知覚的相としてだけ表われるのではなく、感情的・情感的なものとして現われてくるという指摘は銘記しておくべきだろう。たしかにモノや風景にはわかちがたく感情や情感がこびりついている。その感情を自分の「心の中」だけに放り込んで、事足れるとするのは問題だということだ。
神経症や幼児のようになんら快感の見込みのない過去の体験をなぜ反復してしまうのかという問いを発しているが、それは虚構であり、消したり、無視できることがわかれば、過去につかみかかられないことも可能であるということをつけ加えたい。
榎並重行『ニーチェって何?』 洋泉社新書 00/5. 680e
そういえばニーチェといえば、「ニヒリズム」とか「神の死」、「永劫回帰」などの言葉で語られることが多かったけど、私もこの本と同様、ニーチェを「道徳」と「認識」「真理」という面から読んできた。
ニーチェの認識論はすごいよ。認識は恐怖の本能から発せられており、安全への欲求であるといったことや、知覚や認知はわれわれが知っているとおりにおこなわれているわけではないこと、われわれは蜘蛛のように自分の網にかかったものしか捕えることができない、変化には「行為者」が必ずいるはずだという信仰、等々のわれわれの認識信仰への叩き壊しが語られている。
世界はすでにして解釈であり、思考の本性には虚構することが属すといったことが、ニーチェのあの断片的なアフォリズムではまとめられにくい思想が、この本ではすっきり整理されて説明されていて、ひじょうに理解しやすくなっている。
ニーチェの認識論ってやっぱり仏教の認識論だなあと思った。
三嶋博之『エコロジカル・マインド 知性と環境をつなぐ心理学』 NHKブックス 00/3. 920e
知性は環境の中にあるという「生態心理学」や「アフォーダンス」の説は興味をひかれるのだが、この理科系の言葉はどうもわたしになじみにくいし、わかんないよ〜。
『山頭火 句集(一)』 春陽堂 山頭火文庫 650e(古本)
山頭火ははじめ放浪の生き方に憧れて興味をもったが、さいきんやっと句のよさもわかりだしてきた。いまは思いついたときにぱらぱらとページをめくって気ままに詩を味わっている。
「さて、どちらへ行かう風がふく」
「すべってころんで山がひつそり」
「まつたく雲がない笠をぬぎ」
シンプルな言葉だが、情景がうかんできて心が洗われたり、すっきりしたりする。
可藤豊文『瞑想の心理学 大乗起信論の理論と実践』 法蔵館 00/5. 2400e
『大乗起信論』は「この世界はわれわれの心がつくりだした虚妄の世界」であり、「心を見なければ世界は消える」というひじょうに信じがたいナゾをつげた書であり、だからたまらなく理解したいと思う書である。
その『起信論』を解説したこの本は東西神秘思想を研究した著者のことだけあって、仏教的専門用語でなく、わかりやすく、論理的に説明しているので、とても理解しやすかった。すばらしい本であるといいたい。
心は心がつくりだした虚妄の世界を見て、分別し、愛着することによって苦悩しているが、じつはこれは自分の心が自分の心を追い回しているだけという。また視界や外界は自分の肉体と別に存在しているように思えるが、じつはそれは同じひとつの心であると実感することはとても大事なのだろう。
ほかに肉体は真の自己ではないといったことや、「私」は怒りや悲しみを制御しようとしたり、無心になったりしようとするが、これは一つの心が二つに分裂しているだけだという指摘にはたいへんうるところがあった。
われわれが見たり、体験したりするこの世界はすべて自分の心「そのもの」であることを理解し、実感すること、心を離れて世界は存在しないこと、このことを知ることはきわめて重要である。
高崎直道『「大乗起信論」を読む』 岩波セミナーブックス 91/1. 2000e
前述のように『大乗起信論』の「三界虚偽」という説をぜひとも理解したいと思って書店をめぐってみたところ、『起信論』は日本に大きな影響をあたえ、解説書も多いという話だが、いまの書店では二、三冊あるていどだった。
高い本を買うより、入門書のようなものとこのセミナーブックスを読んだが、理解を深められたわけではない。なんでかな。やっぱりじっさいの人の心理を説明するよりか、テクストを解釈しているという性質が強かったからかな。
佐々木正人『知性はどこに生まれるか ダーウィンとアフォーダンス』 講談社現代新書ジュネス 96/12. 631e
知覚世界の幻想性や実体のなさといったものを知りたいと思っているのだが、そういうことを科学的・学問的にいっているような本はあまりない。
新しい知覚論ということでアフォーダンス理論に二度目のチャレンジである。意味はぼくらの脳にあるのではない、身体とまわりの世界に境はない、自己はどこにも定まっていなくて、世界の中に刻々とあらわれる、ぼくらは一つではなくて多数の身体をもっている、とさいしょのぺージでいわれているが、この本のどこにそんなことが書かれていたのかな。
鈴木大拙『禅とは何か』 角川ソフィア文庫 1930/6. 540e
世界で読みつがれている禅入門の本ということだが、ちくま文庫の『禅』はよかったが、この本はただの四方山話だ〜。
木村清孝『華厳経をよむ』 NHKライブラリー 94/3. 1020e
「一滴の滴が大宇宙を宿し、一瞬の星のまたたきに永遠の時間が凝縮されている」という「華厳経」の世界観というのはスゴイと思うのだが、やっぱり仏教というのはそれは「どうしてか」という科学的な説明はしてくれないので不満がのこるところである。
「三界は虚妄にしてただこれ心の作なり」というわたしにとってとても興味あるキーワードはこの「華厳経」で語られているそうで、奈良のどデカイ大仏さんは「華厳経」の教主であるということである。
平田晴耕『一切は空 般若心経・金剛般若経』 集英社 83/10. 1200e(古本)
『般若心経』がひじょうにやさしく、わかりやすく説明されていたので、知らなかった基本的なことをいくつも教えられた。
観音というのは音を観るというヘンな言葉であること、鏡は色がないから(無色)あらゆる色を映す、空の世界に耽着することは「禅病」「空病」といわれ、たいへんいましめられること、無心というのは視覚や音がなくなるのではなく、心がそれにとどまらないこと、などが語られている。
『法華経』 岩波文庫 上巻700e
最高の経典といわれ、日本に大きな影響をあたえたということと、数少ない文庫の現代語訳であるということで読んでみたが、おもしろい比喩的な物語があったり、すこしだけ鋭い句があったりしたが、案の定、中下巻を読む気にはならなかった。
それにしても漢文と読み下し、注釈に多くのページをとられていて、現代語訳だけなら一冊の本でまとめられるのではないかと思うのだが、一般の読者にとってこんなムダな部分が必要というのだろうか。
『浄土三部経』 岩波文庫 上巻700e
まあこの本も上記の本と同じく漢文読み下しと注釈でほとんどのページをとられていて、私のようなどんなことが書かれているのかと読む者にとってはものすごくゼイタクなつくりになっている。およそ三分の二ていどは捨てるようなものだ。
『無量寿経』の世俗の人たちの苦悩を批判している箇所はものすごく感銘するのだが、仏国土というのは金ピカの世界で、そんなのを憧憬してしまったら世俗人と変わらないではないか、まるでどこかの金ピカ宗教と変わらないじゃないかと思わしめてしまう。
鎌田茂雄『現代人の仏教』 講談社学術文庫 98/5. 820e
「三界虚妄、但是一心作」ということを知りたいのだが、「三界唯心」の章があったので読んだ。ほんとうのところはこれを哲学や科学で解明した本をいちばん読みたいのだが、そういう本はなく、あまり納得するまで説明してくれない仏教書を読むしかない。
仏教者のさまざまな言葉が引用されていて、仏教の全体的なことやいってきたことを知るのに参考になる。
玉城康四郎『仏教の根底にあるもの』 講談社学術文庫 86/4. 920e
仏教の「無」と「時間論」が語られていたので読んだ。ほかは空海や親鸞、道元が語られているが、学術的な仏教というのはどんなことが書かれているのかなと思ったくらい。
『エックハルト説教集』 岩波文庫 (1260-1328?) 660e
仏教に近いドイツ神秘主義者ということで読んだが、ほとんどは心に触れず、響かなかった。
「人が空間や時間、それに数や多様性や量を持つかぎり、人はその点でまったく義ならざるものであり、神はその人から遠く隔たり、見しらぬものとなる」
「見るという働きの内では、目即木材つまり、この木材はわたしの目である、と真に言うことができるほどひとつとなる」――もしかして目に見えるものは「わたしの目」であるといえるのかもしれない! 目と視界は離れてあるのではなく、同じ一つのものである。分けることはできない。
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00年春に読んだ本「感情社会学ほか」
断想集「自我と境界についての断想集」
断想集「虚構の自己論」
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