1998/4/27.
水辺や水中で過ごしたから人類は生まれたというアクア説(水生類人猿説)がある。
水の中で暮らしていたから二足歩行になり、体毛がなくなったというおもしろい説だ。
ほかのサルに比べて体毛がない丸裸状態になった説明には優れている。
人間の皮膚はイルカやカバに近いのだろうか。
チンパンジーやゴリラと人類を画する進化の一線が見つからなくて、
それはミッシング・リンクと呼ばれている。
約一千万年前から二百万年前のアウトラロピテクスまで空白なのだ。
その化石は海中にあるというのはなかなか目のつけどころがスルドイ。
人類に進化したのはこれまでサバンナ説とネオテニー説があったが、
たしかにこれらの説もそれなりの説得性がある。
サバンナ説は森林から草原に暮らす必要に迫られたというごく当たり前の説だ。
ネオテニー説はサルの幼児期に成長がとまった状態が人類だという説だ。
アクア説はかなりの発想の飛躍がある。
森林から海へ生活の場をいきなり変えたわけだ。
そして体毛がなくなり、二足歩行になったということだ。
この説はとても惹きつけられるのだが、いろいろ批判的に見たくなる。
なぜ現在のわれわれはかつて暮らしていたはずの水中生活に快適さを感じないのか、
なぜふたたび陸上に生活の場を変えたのかといったことなどだ。
水の中ではわれわれは溺れてしまうし、窒息してしまう。
そのようなところで長い間、生活しようとするだろうか。
海辺や川辺に暮らし、漁師のように食べ物を水中の生き物に求めたのだろうか。
水のなかならたしかに肉食獣に襲われる心配はないし、食物も豊富だ。
ソーいえば「貝塚」なんて化石がよく見つかるから、人類は農耕時代に先駆けて、
「漁業時代」というのを経てきたのだろうか。
そのあいだに体毛が薄くなり、水中で抵抗の少ない体毛のはえ方に変化し、
すぐ溺れてしまう四足歩行から二足歩行に変わったというわけだ。
だけど水の中で暮らす動物のすべての毛がなくなるというわけではない。
ビーバーとかかわうそとかは裸になっていない。
陸上の動物ではゾウやサイがほとんど裸だ。
大型の動物になると体温を保つには体毛より皮下脂肪のほうがよいというわけか。
われわれはカバのような生活をしていたのだろうか?
水中の生き物を食料にした類人猿が人類の先祖なのだろうか。
漁師のような生活をしたサルが人類を生んだのだろうか。
人間は水中の中で何分も息をできるわけではないから、
水中の生活に完全に適応したというわけではない。
イルカとかクジラは陸上の哺乳類が海中の生活に適応した種だと考えられているが、
人間はそこまで進化しなかった。
体毛をなくし、二足歩行という人類の特徴を手に入れて陸地にもどってきた。
水中の生活は頭脳の発達もうながしたのだろうか。
水の中で長く暮らすのなら脳が重くなってもあまり関係ないということもある。
水中だけの生活に適応する前になぜ人間は陸に戻ってきたのだろうか。
かつて追われた陸上の生活を克服する道具や技術を手に入れたからだろうか。
たとえば火やなんらかの道具などだ。
火は水中で冷え切ったからだをあたためるには役に立っただろうし、
海中生物をとらえるために手が敏感になり、そのために手が器用になったのかもしれない。
そうして人類は生存のレベルをアップさせて、その生活能力を片手に、
ふたたび地上の生活に舞い戻っていったのだろうか。
人類はほかの類人猿とちがって水中生活をはじめたから、人類になったのだろうか。
水際の生活が人類を進化させた?
われわれは水の中ではじめて人間になったのだろうか。
このアクア説はひじょうに突飛だが、魅かれる説だ。
ミッシング・リンクとよばれる期間の化石が海底から発見されてほしいものだ。
なお参考にしたものは、毎日新聞4/26書評「中村桂子評『人は海辺で進化した』
エレイン・モーガン著どうぶつ社刊」とデズモンド・モリス『裸のサル』河出書房新社です。
テレビの『特命リサーチ200X!』の河童のミイラを探れば、水生進化論にぶちあたったという、
ちょっとこれは子どもダマシではないかという内容にもすこし触発されました。