アンチ上昇志向!  ANTI-AMBITION MAN!


                                            1998/4/15.




     世の中には「よい学校に入って、よい会社に入って」という上昇志向がある。

     だれもがそれをめざすわけだが、そこに入ったからといってどうなるのか、

    ということなどはあまり問題にならない。

     みんながそれをめざしているから――どこに行くかはわからないけど、

    とりあえずその後についてゆけとなる。


     われわれは上へ上へとめざしてきた。

     みんなが押し進めているから、その方向につっ走ってきた。


     だが、上に行くということはそんなにいいことばかりで、オイシイことばかりなのか。

     エリートだとか大企業の格を得られるだとか、つぶれないとか、福利厚生がいいだとか、

    いろいろ特典はある。

     その反面、ずっと競争がつづいたり、朝から晩まで家庭と私生活を犠牲にして

    がむしゃらに働かなければならないし、責任や決断は重くのしかかってくる。

     ときには人を欺いたり、クビを切ったり、道具のように扱わなければならないときもある。

     最近では公務員の倫理腐敗がはなはだしく、人徳がまるで失われている。

     人の上に立ったり、上層階級に入るということはそういうことだと思うが、

    この国ではそういうことがあまり知らされずに上へ上へとめざす。

     上昇志向というのは、道徳や人格を切り捨てることではないのか。

     エライ人成功した人は、道徳的に信用できないという気持ちをわれわれはもっている。


     まあいまさらそんなことも言うまでなく、人々の上昇志向はどんどん落ちている。

     そこそこの暮らしと安定があればいいというふうになってきている。

     人々は分をわきまえた暮らしに落ちつこうとしている。


     がむしゃらにつっ走るなんてもううんざりだと思っているわけだが、

    どうも会社とか経済というのはそういうことを許してくれないらしい。

     ケツをあおられ、人生のほとんどの時間を仕事に拘束され、

    自己犠牲の奉仕が称賛されているようだ。

     もう生活や地位などの上昇志向はそんなにないのに、

    会社は上昇志向を仕事の原動力にしようとしている。

     ケーキを口いっぱいに押し込められている気分だ。


     だけどそこそこの上昇志向をもたないことにはメシも食えない。

     ビジネス書なんかでは「〜ができなければ生き残れない」といった、

    うたい文句によって不安に火をつける。(書籍の売り上げに火をつける?)

     でも今のところそんな上昇志向なんかもてるものなのか疑問に思う。


     上昇志向とか見栄とか虚栄とかがなくなってしまったら、

    たしかにその日暮らしでもビンボーでもホントに平気になってしまう。

     上昇志向はわれわれの生活水準の下支えになっているといえる。

     というより「人並み志向」の強迫観念のほうが日本人の場合には強いかもしれない。


     上昇志向なんて地獄の特訓みたいで、もうしんどい。

     だけど一方では、下のランクや地位に落ちることはやはりツライのである。


     職業に貴賎とかランクとかはないとタテマエでは教えられるが、

    やっぱり厳然とランクがあるのはたしかである。

     ホワイトカラーは肉体労働やブルーカラーより地位や評価が高いし、

    銀行員や商社マンは、建設業界や現場の仕事より評価は高い。

     現在の人気・花形産業はやはり停滞産業より格が高くなる。

     中小企業やとくに下請けは、親会社からかなり差別され、虐げられ、イジメられる。

     職業には差別と階層といったものがたしかに存在する。


     表立ってこの職業ランクが表わされることはないから、

    わたしはそれを知りたいと思っていたが、なかなか知ることができない。

     ピエール・ブルデューなんて社会学者は『ディスタンクシォン』という、

    趣味の階層といった本を著していたが、趣味にも階層があるのだ。


     だいたい若者は3K(キタナイ、キツイ、キケン)の職場を避けるといわれたが、

    これまでのそういう暗黙の職種の階層を反映しただけのことだ。

     多くの人は肉体労働よりホワイトカラーをめざす。

     地位や出世のランクでは上位に位置されるからだ。


     だけど上昇志向や出世主義はしんどい。

     道徳的にもあまり好かれなくて、学校では平等主義がスゴイところまできている。

     そのタテマエの地ならしが、いじめなどの優劣表示を生み出しているとも考えられる。


     上昇志向を捨てればラクになれるのだが、もしかして人から差別されたり侮蔑される、

    下層階級ではないのか、といった不安も抱かなければならない。

     上昇志向はもうしんどいのだが、一方では下のレベルに見られることもツライ。

     会社にノルマでケツをあおられたり、ポストをエサに馬車馬のように

    働かされたりするのはうんざりなのだが、下層階級にもなりたくない。


     現在この国は一億総中流だとか均質な平等社会だとかいわれたりする。

     でもわたしの実感としては、階層という分類は職業の種類によってあるみたいだ。

     階層というものはテコでも動かないように見えるから、

    自分の階層が下層に位置されるのはショックである。

     上昇志向はしんどいが、一方では下層階級になるのもイヤなのである。

     上はもうあまり望まないが、下層には位置づけられたくないと複雑なのである。

     上が視野から消え去った分、下との違いばかり目につくのかもしれない。


     上昇志向というのはもうだいぶその意味がなくなってきた。

     車とか家電とかほとんどの家庭にゆきわたり、

    消費の面ではあまり上を目指してもしかたがない。

     官僚とか大企業といった従来のエリートコースも地に落ちた

     まだまだだいぶ堅実なのかもしれないが、官僚なんかカッコイイと思う人なんか、

    以前からだいぶ少なくなってきたのではないだろうか。

     大企業のサラリーマンはバブル時代に三高といって絶大にもてはやされたが、

    山一のように大企業がつぶれれば、タダの人である。

     なかには妻からブランド企業に勤めるあなたと結婚したのに、

    とサイテーの侮辱をいわれることもあるかもしれない。


     もしかしてこれらのエリートは古いタイプのエリートコースで、

    いまはテレビとかラジオとかの権力や憧憬が強くなっているのかもしれない。

     この業界に上昇志向の強い連中がいまは集まっているのではないだろうか。

     工業社会の権力ピラミッドと情報社会の権力ピラミッドの新旧交代だ。

     ソフト業界やゲーム業界、インターネットなど、こちらをめざした人生ゲームがはじまる?

     まだ情報社会の「上がりコース」や「成功の既成コース」はできあがってないみたいだし、

    その姿も明確ではないから、過渡期のいまはむずかしい時代だ。


     実験や冒険が必要な時代であるようだけれども、

    まだまだ旧来の安定コースのほうが安全のようにも見受けられる部分もある。

     リスクを負うより、リスクを負わない旧来のコースのほうがまだ安全にみえる。

     実験的な生き方は、旧来の道徳や慣習に反抗するようなかたちになるので、

    カドを立てないで生きようとする者たちは既成の人生を選択しようとする。

     この日本社会はどこまで変わることができるのか、かなり不透明だから、

    やはりみんな慎重にならざるを得ないのだろう。

     社会の「変わる部分」と「変わらない部分」を見極めることが大事である。


     消費での上昇志向はかなり少なくなり、組織での上昇志向も頭打ちだ。

     旧来のコースでの上昇コースはかなりむづかしくなっている。

     現在は「人並み」から落ちこぼれる恐れが、過当な競争をつくりだしている。

     これから社会は全体のレベルをこれまでどおり維持することができるのか、

    それともぼろぼろと脱落者を増やし、全体のレベルを落とすことになるのだろうか。

     落ちたほうが見栄をはらずにラクに生きられる部分もあるのだが。

     レベルが落ちる者はかなりツライ気持ちを味わわなければならないかもしれないが、

    ものは考えよう、上昇志向人並み志向のためにがむしゃらに働かなければならない

    暮らしから脱却できるかもしれない。

     安逸とか怠けられる生活にもそれなりの価値や喜びがあるものだ。


     上昇志向や人並み志向は日本経済の成長のための原動力となってきた。

     これらの向上心のために日本経済は豊かになり、とても大きくなった。

     だけどその分、失ってきたものも大きいのである。

     ガツガツ、せこせこしてばかりいて、余裕やゆとりある心は失われた。

     上昇志向という目的があるときには寄り道なんかしているヒマはない。

     またこの国ではみんなでいっしょにという幼児的な強制力がひじょうに強い。

     人それぞれの好きな生き方、自由な生き方をさせないという点でひじょうに不幸なことだ。


     上昇志向は一国の経済を拡大成長させる。

     かつての大英帝国はジェントルマンの地位を得ようとして経済成長をもたらした。

     上流階級のシンボルであるキャラコなどの輸入衣料を手に入れようとして、

    繊維の産業革命はおこった。

     アメリカも車で女性をデートに誘うという向上心が経済をもりたてたともいえる。

     日本なら月給制のサラリーマンなら女性が喜んで団地妻になってくれるといった、

    そのような原動力が高度成長をもたらしたといえるのではないだろうか。


     いまから見れば、バカげているようにみえる。

     上昇志向というのは後からみれば、滑稽で、バカらしいものかもしれない。

     そのときには光り輝き、とても手に入れられそうもない憧れの対象は、

    それを手に入れたあとは、どうってことのない、たいしたものでないものに転落する。


     上を向いている者は上のことばかり情報が入る。

     たとえばアメリカやヨーロッパの情報や知識はかなりつめこまれるが、

    アフリカやイスラムの人々の暮らしや価値観といったものはほとんど入ってこない。

     自分たちの価値観だけで世界を切りとり、価値のない世界は切り捨てられる。

     上昇志向の強い人たちの世界観とは、その価値観のランキングばかりだ。

     日本全体がこのような価値観をもっているわけだ。

     われわれは知らず知らずのうちにこの価値観の情報に洗脳されている。


     よってイギリスが英国病などとかいわれて没落しはじめたとき、

    ランキングから落ちたイギリスは、日本人にとっては哀れな存在だった。

     しかし当のイギリスにとってはランク外の生活はあんがい、

    のんびり、豊かに暮らせて幸せだったかもしれない。

     上昇志向の世界観しかもたない貧困な日本人はそんなことを夢にも思わない。

     上昇志向をもつ社会は、そのほかの価値観ランキングを受け入れることができない。

     余裕のない、ぎすぎすとした一直線の思考しかもつことができない。


     そういう意味で、平等をめざす社会からは嫌悪の対象である階層社会というのは、

    上昇志向をもたずに無理せずにラクに暮らせる社会ともいえる。

     だれもが平等に上昇する機会をもつ社会(タテマエ?)は、チャンスも大きいが、

    がむしゃらに上をめざす暴走や競争を激化させるしんどい社会だ。

     日本のばあいはなおさら、下のレベルの人間もいっしょに上にひきあげようとする、

    底上げ的な社会だから、よけいに過負担だ。

     みんなで人並み志向や上昇志向を押しつけ合う、苦しい社会だ。

     この国に参加したものは否応なく長期のマラソン人生を余儀なくされる。


     階層社会はラクだ。

     はじめから上昇する機会は失われており、希望も大きな夢も抱かなくていい。

     おのずと気持ちにもゆとりと余裕がもたらされるだろう。


     上昇志向をもつ社会はどこまでいってもその足をとめることができないのだろう。

     明日になればもっとよい明日があるという社会はいつまでも幸福になれない。

     今日はいつも不満と渇望にさいなまされるからだ。

     上昇志向はけっして今日を満足させてくれない。


     おまけに不満と不安は雪だまるま式に増えてゆく。

     豊かになった現在の人は老後の心配までして不安でいっぱいだが、

    かつての貧しい人たちは老後の保障などまるでできていないのに、

    借金までしてテレビや冷蔵庫を買っていたそうだ。

     上昇志向は不満と不安の中身まで急上昇させてくれる。


     だから上昇志向をあまりもたずに分をわきまえてふつうに生きようとする若者は、

    豊かな時代においての賢明な生き方を実践していることになる。

     ただ下のレベルに落ちることについてはひじょうに敏感という過渡的な時代、

    しっかりと割り切ることのできない時代の狭間に立たされているようだ。


     階層社会はかつてわれわれが叩き込まれたように、

    まったく流動性がなく、自由のない社会とはいえない。

     上昇志向者にとっては怒りのシステムのなにものでもないが、

    ほどほどでよいと思っている者たちには都合のよい社会である。

     江戸時代は階層社会だといわれるが、案外その階層はゆるかったらしい。

     みんなでがむしゃらに走りつづけなければならない社会よりマシだろう。


     階層というのはある時代の価値観によって階層づけられる。

     社会のおおかたの人はその価値観を信奉して、このヒエラルキーから抜けきれないが、

    そのような価値観がすべての人にとっては絶対とは限らない。

     たとえばもしボウリングのピンを多く倒すことが最高の価値とする社会が

    あったとするのなら、そんな社会でトップをめざしても仕方がないだろう。

     支配者や権力ヒエラルキーをめざす価値観もすべての人が得たいとは限らない。

     そういうことはそういうことが好きな人にまかせておればいいのであり、

    そのほうがほかの人はラクで自分の楽しみを追究できるかもしれない。

     政治に関心をもたない若者たちがまさにそういう生き方をしている。


     階層社会は支配者がしたい放題で、民衆を虐げるという捉え方があるが、

    こういう危険性はたしかにある。

     だけど現代の日本社会も権力者たちの腐敗がはびこっており、

    手直しがまるでできないことでもあまり変わりがない。

     どんなすばらしい看板をもっている社会でも、けっきょくは、

    権力者がしたい放題にのさばり、民衆を虐げるものなのかもしれない。


     日本社会はもしかすると階層社会が進行しているのだろうか。

     上をめざさない若者はそのような社会を受容するかもしれない。

     職業の世襲は政治家や芸能界、経営者などの世界でひんぱんにおこっているし、

    世襲を機会平等社会への挑戦だとする声はあまり聞こえない。

     明治に若返りをはたした社会はあんがい、

    年老いた階層社会に逆戻りしているのかもしれない。


     消費での上昇志向もあまりないし、出世志向ももう頭打ちである。

     若者たちはがむしゃらな競争はもううんざりだと思っている。

     日本のばあいはとくに自由な市場競争より、大企業や国家保障への「奴隷競争」

    のようななさけない歪んだ競争のかたちなので、よけいにゲロ吐きものだ。


     足るを知り、あまり多くを求めない社会になってゆくのだろうか。

     もうバリバリの上昇志向はしんどい。

     成熟化した社会とは精神的にも多くを求めない大人の社会になるのかもしれない。

     もうこれ以上多くを求めるのはへとへとだ。





     
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