SF映画は深い!
10代のころはSF映画ばかり見ていた。
まっ白な宇宙船や、異様で広大な宇宙空間、どことも知れない異星空間、といったものにたまらなく魅きつけられていた。
そんな中から、わたしの好きなSF映画をご紹介します。
『猿の惑星』は子どものころのわたしにソートーのショックをあたえた。
テイラーが猿たちに自分の知性を示せないもどかしさや、この猿の惑星がじつは人類滅亡後の地球だったという結末は、なみなみならないショックをわたしに与えた。人類の暴力性と知性というテーマが、猿という姿に表された作品?
『新・猿の惑星』も、コーネリアスとジーラが現代の地球にやってくる話だが、悲劇的な最期がとても悲しかった。
テレビ版の『猿の惑星』もよく見ていたが、これは医学的知識をもった人間たちが猿たちを救ってゆくという話で、アメリカの先進性をくすぐるようなちょっと放漫な内容だったが、それでも感動していた。
テレビ映画で6時間ほどの『火星年代記』はものすごく好きだった。火星の異様でなんともいえない雰囲気にたまらなく魅きつけられた。不可解な謎のまま、ストーリーがつづいてゆくというのが、魅きつけられる理由だったかもしれない。
火星人の夫婦の嫉妬によって殺される探査船の乗組員たちや、火星に到着したのにそのまま故郷のイリノイ州の家にいたり、何人もの人間のもとめるままの姿に変身してしまう火星人、人類のほとんどが滅亡しても、化粧とファッションに夢中になっている女性など、秀逸なエピソードに満ちあふれた秀作である。
レイ・ブラッドベリの原作で読めるが、このテレビ映画の異様な雰囲気は、どっぷりと火星の世界にひきこませる。
テレビ『スター・トレック』はやはり好きだ。カーク船長やミスター・スポック、ドクター・マッコイ、ミスター・カトーとか、個性的であたたかい人間像がとてもいい。
映画の一作目はストーリーがおもしろくなくて、ニ作目の『カーンの逆襲』はおもしろかった。
『2001年宇宙の旅』はやはりカルト映画ということで、何度もみているが、あいかわらずその意味は不明だ。アーサー・C・クラークの原作を読めば、よけいにわからなくなる。人類の進化がテーマになっている? かんたんに理解できてしまえば、この作品の魅力が失われる?
『ブレード・ランナー』もビデオでカルトになったが、もちろん好きだ。やっぱりあの雨の降りつづける近未来の都市の雰囲気が、独特でよかったのかもしれない。フィリップ・K・ディックの原作も、いい感じがした。テーマはやはり人生と死あたりになると思うのだが、そこまで読めない。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はもちろんとてもおもしろい。いまは保守的になっている親たちも、青春時代は反抗的な自分たちと変わらない、といったテーマはその目のつけどころがとてもウマイと思う。
『ET』はなんであんなものが大ヒットしたのか、よくわかんない。『スター・ウォーズ』は10代のころ、大ヒットしつづけていたが、そんなに魅きつけられなかった。
『フィラデルフィア・エクスペリメント』という映画は、戦時中の人間が現在にやってくるという話だが、タイム・トラベルものの作品は、なにかとても哀切をさそう。
『戦国自衛隊』もそうだったが、帰れない時代への郷愁というのは、とても心を打つ。時間のなかではかなく消えてゆく人間の人生といったものを、強く語りかけているからだろうか。
そういう意味で『ラスト・エンペラー』も歴史に翻弄される人間が描かれていて、とても深い悲しみをのこした。
ちょっとSFではないが、『エンゼル・ハート』というミッキー・ローク主演の映画は、過去の自分がじつは殺人鬼だっというストーリーは、「自分とは、自分が思っている自分なのか」という深いテーマがあったように思う。
ベトナム戦争映画の『ジェイコブス・ラダー』も、ベトナムから都会に帰ってきて暮らしている自分が、じつはベトナム戦争中の病院で死の寸前で垣間見た白昼夢でしかなかった、という驚異的な結末をのこしていて、とても驚いた。
シュワルツェネッガーの『トータル・リコール』にも、はたして自分はいま思っている自分なのか、といった問いがあった。
『エイリアン』はじつは「企業批判」がテーマだと思うのだが、みなさんはどう思うだろうか。エイリアンという怪物は、じつは企業そのものの象徴ではないのか。
映画の随所には、「会社の利益のためには人命すらいとわない」、といったテーマが出てきていた。
企業といった「エイリアン」は、われわれのからだのなかに寄生し、ときには繭のようにわれわれを覆いつくして死にいたらしめる、驚異にみちた怪物ではないのだろうか。「母なる地球」が象徴されたリプリーは、けっきょくは、エイリアンとともに死んでいってしまう。
『ウェスト・ワールド』という映画も印象にのこっている。テーマパークのアンドロイドたちが故障して人間を殺しにかかる――それも西部のガン・マンだからタマらない、といった映画だった。
そんなには感動しなかった『ジュラシック・パーク』の原型である。
人間たちのつくったものがその人間たちを襲いにかかるというテーマは、「フランケンシュタイン」以降ずっととりざたされるテーマだが、これは資本主義にしろ、世間体や慣習といったものも同様である。
『ジュラシック――』の原作者マイケル・クライトンは、鋭く企業批判をしていたが、作品のなかにとりこんでいるのだろうか。なんらかの解決策を呈示しているのだろうか。
もっとたくさんの感動したSF映画があると思うのだが、いまは思い出せない。
だいたいテレビでSF映画を心待ちにしていると、すぐにタネが尽きてしまうので、パニック映画というのもよく見た。
『エアポートなんとか』とか、『大空港』とか、『ポセイドン・アドベンチャー』とか『タワーリング・インフェルノ』とかいったものだ。
こういう映画というのは、極限状況における他人への善行、自己犠牲、といったものが大きなテーマになっていて、とても感動したものだ。
でもわれわれが生きているところは、そんな極限状況がめったにおこらない、だらだらとした毎日がつづくだけの日常である。そして会社に属して売り上げをのばすことに猛進したり、家庭をもって世間体に縛られて、自己の地位や所得の向上だけに目を奪われる、そんなことがあたり前で、なんの疑問も抱かずに麻痺してしまう生活が、われわれの現実ではないだろうか。これでいいのだろうか。
さて、最近ほとんどSF映画――だけではなく、映画自体もあまり見なくなった。テキトーに目を配ったりするが、そんなに映画には魅きつけられなくなった。
専門書ばかり読んでいるから、つくりもの――フィクションから、遠ざかっていってしまうのかもしれない。
何年か前に中沢新一がいってたと思うが、たしか、映画が魅力的でなくなった、時代を変えるような力をもたなくなった――というような主旨のことをいっていたと記憶するが、そのようなこともあるのかもしれない。
たんに年をとって、新しいものにそうやすやすと感動しなくなった、という点があるのかもしれない。
子どものように感動できなくなっただけだ、ということだろうか。
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